律暦淵源
From Wikipedia, the free encyclopedia
編纂
1712年(康熙51年)、康熙帝が陳厚耀から科学書を欽定するよう進言を受け、翌年允祉らに編纂を命じた[2]。1714年(康熙53年)、允祉らが『律呂正義』を進呈[2]。康熙帝崩御の1722年(康熙61年)、『暦象考成』と『数理精蘊』を告成[2]。1724年(雍正2年)[2][3][注釈 2]、雍正帝の序と改正を加えて合編刊行された[2]。『四庫全書』には個別に収録されている[3]。
編纂に参与した人物は何国宗と梅穀成(梅文鼎の孫[7])を筆頭に[1][8]、陳厚耀・王蘭生・魏廷珍・方苞・顧琮・明安図らがいた[9][7][8]。編者の多くは朱子学者李光地の門下や影響下にあった[7]。
宣教師の参与は不明だが、『数理精蘊』のユークリッド幾何学部分が明末の『幾何原本』とは異なる『原論』に基づくことなどから、宣教師も参与したと推定される[10]。
『暦象考成』
『数理精蘊』
『律呂正義』
後世の展開
『暦象考成後編』
『暦象考成』の不備を補うため、1742年(乾隆7年)[20]、ケーグラー(戴進賢)やペレイラ(徐懋徳)により[21][14]、『暦象考成後編』全10巻が編纂された[12][15]。
特徴として、日月の運行に従来の周転円法でなくケプラーの楕円説を採用した点、大気差などの値にカッシーニの値を採用した点が挙げられる[14]。日月以外の運行は周転円法のままであり、コペルニクスの地動説には触れない[14][22]。
乾隆7年以降の時憲暦は本書の「雍正癸卯元法」に従いつつ『暦象考成』を併用して推算された[14]。
『律呂正義後編』
1746年(乾隆11年)允禄・張照等編、全120巻[24]。