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律暦淵源

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『律暦淵源』(りつれきえんげん[1]、御製律暦淵源[2])は、中国清朝の康熙帝欽定の科学書[3]。1722年(康熙61年)成立[1]。全100巻[1]。

天文暦算書『暦象考成』(れきしょうこうせい、歴象考成[注釈 1])、数学書『数理精蘊(中国語版)』(すうりせいうん)、音楽理論書『律呂正義(中国語版)』(りつりょせいぎ)の、全3部からなる[1][4]。後世には『暦象考成後編』なども編纂された。

イエズス会士による西学東漸(中国語版)の影響を受けている。江戸時代日本にも舶来した[5]。

編纂

1712年(康熙51年)、康熙帝が陳厚耀(中国語版)から科学書を欽定するよう進言を受け、翌年允祉らに編纂を命じた[2]。1714年(康熙53年)、允祉らが『律呂正義』を進呈[2]。康熙帝崩御の1722年(康熙61年)、『暦象考成』と『数理精蘊』を告成[2]。1724年(雍正2年)[2][3][注釈 2]、雍正帝の序と改正を加えて合編刊行された[2]。『四庫全書』には個別に収録されている[3]。

編纂に参与した人物は何国宗(中国語版)と梅穀成(中国語版)(梅文鼎の孫[7])を筆頭に[1][8]、陳厚耀・王蘭生(中国語版)・魏廷珍(中国語版)・方苞・顧琮・明安図らがいた[9][7][8]。編者の多くは朱子学者李光地の門下や影響下にあった[7]。

宣教師の参与は不明だが、『数理精蘊』のユークリッド幾何学部分が明末の『幾何原本』とは異なる『原論』に基づくことなどから、宣教師も参与したと推定される[10]。

『暦象考成』

全42巻[2]。上編「揆天察紀」16巻、下編「明時正度」10巻、「表」16巻からなる[2]。

上編は暦法を理解するための天文学の基礎知識、球面三角法、各天体や日食などについて説明する[11]。下編は具体的な暦計算法を記す[11]。ティコ・ブラーエの体系(英語版)に依拠している[12]。

内容に新規性はほぼなく[13][14]、明末のアダム・シャール(湯若望)等編『崇禎暦書』[15]『西洋新法暦書』を再編したものに過ぎない[13][14]。

雍正4年以降の時憲暦は本書の「康熙甲子元法」に従った[13]。

『数理精蘊』

全53巻[2]。上編「立綱明体」5巻、下編「分条致用」40巻、「表」8巻からなる[11]。

上編は基礎理論、下編は各種算法を記す[11]。伝統的な中国数学の問題をとりあげつつ、西洋の幾何学や代数学を紹介している[9]。

数学の本源を河図洛書に置き、西学のルーツが中国にあることを主張している[9][16](西学中源説)[3]。

『数理精蘊』は日本の間重富や[6]朝鮮の徐浩修に読まれた[17]。

『律呂正義』

全5巻[2]。上編「正律審音」2巻、下編「和声定楽」2巻、続編「協均度曲」1巻からなる[11]。

上編は三分損益法に基づいた十四律のシステム、下編は楽器の規格を記す[18]。続編はペレイラ(徐日升)やペドリニ(徳利格)が伝えた西洋の声律理論や記譜法を導入し、中国のそれとの統一を図る[18]。

宋の蔡元定『律呂新書』や明の朱載堉『律呂精義』と並ぶ中国の音楽理論書であると同時に、西洋の音楽理論を紹介した書として価値がある[19]。

後世の展開

『暦象考成後編』

『暦象考成』の不備を補うため、1742年(乾隆7年)[20]、ケーグラー(戴進賢)やペレイラ(徐懋徳)により[21][14]、『暦象考成後編』全10巻が編纂された[12][15]。

特徴として、日月の運行に従来の周転円法でなくケプラーの楕円説を採用した点、大気差などの値にカッシーニの値を採用した点が挙げられる[14]。日月以外の運行は周転円法のままであり、コペルニクスの地動説には触れない[14][22]。

乾隆7年以降の時憲暦は本書の「雍正癸卯元法」に従いつつ『暦象考成』を併用して推算された[14]。

『暦象考成後編』は日本の麻田剛立・高橋至時らに読まれ[23]、寛政暦に影響を与えた[15]。

『律呂正義後編』

1746年(乾隆11年)允禄(中国語版)・張照(中国語版)等編、全120巻[24]。

脚注

参考文献

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