高等小学校卒業後、家業の造園業に従事する一方で、庭園術に関する著書を出版するべく、方々に持ち込みを行い始め、その著作が東京帝国大学で当時造園学の教鞭を執っていた田村剛に認められ、日本庭園協会の機関紙の執筆を開始。
30歳のとき、3ヶ月ほど京都の植治・小川治兵衛もとで修行を行う。
1933年(昭和8年)以降は、業態を庭園設計監理業に移行していく。
1938年(昭和13年)、アメリカ合衆国・ニューヨーク、サンフランシスコ万国博覧会日本庭園作庭の機会を得る。
1969年(昭和44年)、「日本庭園の手法に関する一連の研究」で、日本造園学会賞受賞。1987年(昭和62年)、94歳の長寿で死去。