新加制式

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新加制式(しんかせいしき)は、戦国時代阿波三好家で定められた分国法。全22条からなる。


『新加制式』自体は古くから知られていたが、足利尊氏期に室町幕府が制定した幕府法であるという『大日本史玄慧伝の説が通説であった[1]

大正12年(1923年)、中田薫が論文「板倉氏新式目に就て」を発表した際に軍記物『三好別記』の以下の記述などから、永禄年間に成立した阿波三好家の分国法であるとした[2]

「実休の旧臣篠原駟雲(長房) 才智あるゆえに、薬師という智者を崇敬して諸事を相談し、式目を以訴訟を分、万事にわたくしなかりければ、諸人うらみを存ぜざる。阿波・讃岐・淡路三カ国よくおさまり候」『三好別記』

『三好別記』は17世紀前半に成立したと推定される軍記物[3]であるものの一定の信憑性が認められるとされ、中田説に従って篠原長房が中心になって編纂した阿波三好家の分国法とみるのが今日の通説となっている[4]

ただし、「『新加制式』の制定者は誰か?」となると、分国法の性質上、当主の名前で出されたと考えられるため、『新加制式』も当時の阿波三好家の当主・三好長治(幼名:千鶴丸)の名前で出されたと考えられる[5]

背景

三好氏信濃守護である小笠原氏の流れを汲む一族で、阿波三好郡を本拠とし、阿波守護で細川氏分家の阿波細川家に代々仕え、四国勢を率いて管領細川高国を破り(両細川の乱)、細川政権を支えた。後に三好本宗家当主の三好長慶は本拠地を摂津国に移したが、やがて細川本宗家の当主である阿波細川家出身の細川晴元と対立する。一方、阿波国で晴元の実弟とされる細川氏之 [注釈 1]が阿波守護となり、長慶の実弟である三好実休が補佐しながら、それぞれの兄を支える体制が構築されていたが、晴元・長慶の対立は氏之・実休の対立にもつながり、やがて天文23年(1554年)8月[注釈 2]になって実休が氏之を殺害し、その子真之を傀儡の守護として擁立し、更に氏之の妻(真之の母)小少将を奪って妻として子供を産ませた。その子供が三好長治と言われている[8][9]。その結果、実休は阿波国[注釈 3]において兄・長慶とは別個の支配体制を成立させることになり、長慶の三好本宗家に対して「阿波三好家」と呼ばれるようになるが、兄弟間において強力な連携・協力関係にあり、実休は長慶のいわゆる「三好政権」の一翼を担う存在として、軍事的にはその麾下に留まり続けた[5]

ところが、永禄5年(1562年)に起きた久米田の戦いにて実休が戦死してしまう。後を継いだ長治は幼く[注釈 4]、伯父である三好長慶の支援があるとは言え、実際の領内の統治は篠原長房・三好康長ら重臣達が行わざるを得ない状況となった[注釈 5]。更に阿波国内においては、阿波三好家が阿波守護細川家を討って傀儡化したことに不満を持つ勢力、そして、実休死後には阿波三好家においても幼君が事実上傀儡化していることに不満を持つ勢力が存在していた。こうした状況下で家臣団の統制強化や領国支配の安定化を図る必要に迫られたと考えられ[注釈 6]、そのために成文法化された法律の制定行われたと考えられる[注釈 7]。そうした事情を考えると、『新加制式』も永禄5年(1562年)に長治が家督を継いだ直後に制定されたと推定される[13]

内容

全22条からなる(括弧内の現代語訳は山下知之「新加制式の現代語訳」による)[14]

  1. 可崇神社敬寺塔事(神社を崇め、寺塔を敬うこと)
  2. 固可有禁止賄貨事(厳しく賄賂を禁止すること)
  3. 改旧境致相論事(旧来の境界を改変して相論をすること)
  4. 中間狼藉咎事(中間狼藉[注釈 8]による処罰のこと)
  5. 雖給三ヶ度召文、不参上科事(三度の召文[注釈 9]を受けながら、出頭しない罪科のこと)
  6. 相論之時出証人事(相論の時に証人を出すこと)
  7. 雖無道理、無指損之故、企謀訴之輩、可被懸贖銅事(道理がなくてもたいした損失が出ないため、謀訴[注釈 10]を企てる者には贖銅を懸けるべきこと)
  8. 強窃二盗罪科、并与党同類事(強盗、窃盗の罪科ならびに加担者・同類のこと)
  9. 失物随見出、可返本主事(紛失物を発見次第本主[注釈 11]に返すこと)
  10. 号咎人、不究事由、而令殺害事(犯罪者と称して、事由を追及せずに殺害すること)
  11. 被官人罪科、懸主人否事(被官人[注釈 12]の罪科が主人にかかるかどうかのこと)
  12. 譜代相伝被官人事(譜代相伝の被官人のこと)
  13. 一季奉公輩事(一季奉公人[注釈 13]のこと)
  14. 為地頭、百姓田畠等押置事(地頭[注釈 14]として百姓の田畠を差し押さえること)
  15. 対地頭不遂事由、猥名主職売買事(地頭に対して事由を報告せず、みだりに名主職を売買すること)
  16. 百姓恒例年貢恣令加増事(百姓への恒例の年貢を勝手に加増すること)
  17. 譲与所領於子孫事(所領を子孫に譲与すること)
  18. 雖為父祖之譲状、依事可有用捨事(父祖の譲状であっても、ことによっては取捨すること)
  19. 以御恩地入質物事(御恩地[注釈 15]を質に入れること)
  20. 結党類互令盟誓事(党類を結び互いに盟約・誓約すること)
  21. 号咎人追来之時、自他方令出合殺害事(犯罪人と称して追跡してきた時に、他方から出て来た者が殺害すること)
  22. 被官人及攻戦、其咎懸主人否事(被官人が攻戦[注釈 16]に及んで、その罰が主人に懸かるかどうかのこと)

以上の条文を分類すると、以下のグループに分けることが出来る(重複するものも含む)。

  • 神社・寺院関係(1)
  • 訴訟・裁判関係(2・3・4・5・6・7)
  • 犯罪・刑罰関係(8・9・10・11・21・22)
  • 家臣統制・主従関係(11・12・13・19・20・22)
  • 所務関係(14・15・16)
  • 相続関係(17・18)

全体的には訴訟・裁判に関する規定や犯罪・刑罰に関する規定、家臣統制を含めた主従関係に関した規定が大半を占め、相続や債権・債務に関する条文は少ない。分国法でも、領国の行政一般を扱った「国法」よりも、大名家の家中の統制を扱った「家法(家中法)」の要素が強い。これは阿波三好家が実休死去という突然の事態に対して家中の統制が重視され、両国では社会秩序の維持が求められたことの反映と考えられている[15]

条文は多くの武家法の模範となった鎌倉幕府の御成敗式目と同じように漢文体の一つ書きの事書形式で規定の概要・趣旨を記し、続けて本文を記載する。また、御成敗式目の内容も意識され、第3条が式目第36条に対応し、以下同様に第5条が式目第35条、第7条が式目第28条、第8条が式目第33条と対応している[16]。ただし、式目の条文をそのまま採用するよりも第3条にある「当時不合期(時代にそぐわない)」という表現のように御成敗式目と規定の内容が大きく異なる場合に持ち出されている[17]

更に律令法公家法由来の刑罰である「贖銅」を第7条(虚偽の訴えを起こしたがその被害が軽微であった場合)と第9条(盗品だと知らずに相続・売買などで所有していた者に対する処分)に適用するのも他の分国法では見られない特徴である[18]

主従関係や家臣団統制を強く意識していたことは、各条項から読み取れる。第20条において、家臣間の結党・盟約・誓約の類いを禁じ、違反者は分国からの追放と定めている。こうした規定は甲斐武田家甲州法度之次第』などにも存在しているが、三好長治幼少期に成立した説を取った場合には幼君の元で権力が揺らぐことを警戒されていた当時の状況を物語る規定とも言える[18]。また、第12条では主従関係における譜代の定義を「10年以上の奉公」とし、第13条では武家奉公人が年期明けとなる月でもないのに暇乞いすることを禁じている(ただし、主人の判断で許すことは出来ると書かれているため、一種の「引抜防止」の規定と考えられる)[19]。そして、主人となった武士に対して被官人(家臣・従者・奉公人)を私的に処分する私成敗の権利を引き続き認めているのも特徴的である。第11条では、被官人が重罪を犯したのに主人がこれを引き渡さなければ3年間所領の半分を没収するものとし、例外として実否が定かではないときは主人が保護することは認めるが、実際に有罪判決が出た場合には主人が被官人を判決に応じた処分を行うことが求められた。また、第22条でも、被官人が私的に他人を攻撃した場合には主人が被官人を究明して処分することが求められ、処分を行わなかった場合や事実と異なって被官人に責任がないと申し立てて後日偽りが露見した場合には3年間所領の半分を没収するものとしている。これらの規定は大名権力としては成立してから日が浅い阿波三好家では刑事裁判権を一元掌握する段階には到達しておらず、従来からの私成敗を完全に否定することが出来なかった実情を反映していると考えられている[20]

備考

脚注

参考文献

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