日本橋中洲
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| 日本橋中洲 | |
|---|---|
| 町丁 | |
北緯35度41分00秒 東経139度47分26秒 / 北緯35.683306度 東経139.790642度 | |
| 国 |
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| 都道府県 |
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| 特別区 |
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| 地域 | 日本橋地域 |
| 人口情報(2023年(令和5年)1月1日現在[1]) | |
| 人口 | 2,475 人 |
| 世帯数 | 1,440 世帯 |
| 面積([2]) | |
| 0.094395077 km² | |
| 人口密度 | 26219.59 人/km² |
| 郵便番号 | 103-0008[3] |
| 市外局番 | 03(東京MA)[4] |
| ナンバープレート | 品川 |
日本橋中洲(にほんばしなかす)は、東京都中央区の町名。「丁目」の設定のない単独町名である。住居表示実施済区域。「日本橋○○」と称される地名の中では唯一、末尾に「町」が付かない地名である。
河川
歴史

隅田川対岸から眺めた安政期の中洲。
中洲はもともと文字通り隅田川の中洲であった。川が三方に分かれていた地点にあったため一帯はみつまた(「三派」「三ツ俣」「三つ股」など表記が多数存在する)とも呼ばれたが、具体的にどの流れを指したかについては諸説ある。また、付近の海域は淡水と海水の分かれ目に当たるため、別れの淵と呼ばれた。月見の名所として有名で、舟遊びで賑わった。
1695年(万治2年)吉原の遊女高尾太夫が中洲近くの船上で吊り斬りにされ、遺体が北新堀河岸に漂着し、高尾稲荷に祀られたという逸話がある。
1771年7月27日(明和8年6月16日)馬込勘解由(6代目、馬込興承)により浜町と地続きになるように埋め立てが行われ、1773年1月10日(安永元年12月18日)に中洲新地として竣工した。1775年(安永4年)には町屋が整い、富永町と号した。間もなく飲食店が立ち並ぶ一大歓楽街となり、両国の客を奪うほどの賑わいを見せた。しかしながら、隅田川の流路を狭めたために上流で洪水が頻発し、また奢侈を戒める寛政の改革の影響もあって1789年(寛政元年)取り壊され、芦の茂る浅瀬へと戻った。この時の土砂は隅田土手の構築に利用された。
1886年(明治19年)再び埋め立てられ、中洲河岸が成立、後に中洲町となった。1893年(明治26年)真砂座ができると、中洲は娯楽街として再び賑わいを取り戻すかに見えたが、大正期には早くも廃れた。
1935年(昭和10年)中洲に改称する。1947年(昭和22年)より中央区日本橋中洲。1971年(昭和46年)そのまま住居表示が実施された。1971年(昭和46年)に浜町との境、翌年に箱崎町との境が埋め立てられ、完全に地続きとなった。
世帯数と人口
2023年(令和5年)1月1日現在(中央区発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
| 年 | 人口 |
|---|---|
| 1995年(平成7年)[6] | 171 |
| 2000年(平成12年)[7] | 277 |
| 2005年(平成17年)[8] | 657 |
| 2010年(平成22年)[9] | 865 |
| 2015年(平成27年)[10] | 1,018 |
| 2020年(令和2年)[11] | 1,570 |
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
| 年 | 世帯数 |
|---|---|
| 1995年(平成7年)[6] | 71 |
| 2000年(平成12年)[7] | 159 |
| 2005年(平成17年)[8] | 481 |
| 2010年(平成22年)[9] | 587 |
| 2015年(平成27年)[10] | 655 |
| 2020年(令和2年)[11] | 921 |
学区
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2025年4月現在)[12]。
- 区域 : 全域
- 小学校 : 中央区立有馬小学校
- 中学校 : 中央区立日本橋中学校
交通
事業所
施設
- 金刀比羅宮
その他
日本郵便
- 郵便番号 : 103-0008[3](集配局 : にほんばし蔵前郵便局[15])。
