日本無軌道電車
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| 日本無軌道電車線 | |
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走行中のトロリーバス (日本地理風俗大系第8巻(1931)より) | |
| 基本情報 | |
| 現況 | 廃止 |
| 国 |
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| 所在地 | 兵庫県 |
| 種類 | 無軌条電車 |
| 起点 | 花屋敷停留所 |
| 終点 | 新花屋敷停留所[1] |
| 停留所数 | 3停留所 |
| 開業 | 1928年8月1日 |
| 休止 | 1932年1月 |
| 廃止 | 1932年4月 |
| 所有者 | 日本無軌道電車 |
| 運営者 | 日本無軌道電車 |
| 路線諸元 | |
| 路線距離 | 1.3 km[2] |
| 電化方式 | 直流 600 V[3] 架空電車線方式 |
| 停留所・施設・接続路線 | |||||||||||||||||||||||||
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日本無軌道電車(にほんむきどうでんしゃ)は、兵庫県にかつてあった、阪神急行電鉄(阪急電鉄の前身)宝塚本線の花屋敷駅(後に雲雀丘駅と統合され廃止)近くの花屋敷停留所[4]と新花屋敷[1](現在の川西市満願寺町付近。満願寺町は川西市の飛地)の間を結んでいた無軌条電車(トロリーバス)路線。日本初のトロリーバス路線として開業したが、開業してから4年で廃線となった。
宝塚線花屋敷駅から2km離れた山奥には、かつて温泉が湧いていた。大正時代、大阪心斎橋で呉服店経営に成功した田中数之助[5]がこの地の開発を行うため、すでに設立していた「能勢口土地」という会社を新花屋敷温泉土地と改め、温泉場と遊園地を整備した。しかしここは花屋敷から2km離れている上、坂が続くため湯治客・行楽客は難儀を強いられた。これらの客のために新花屋敷温泉土地はフォードのオープンカーを運転していたのだが、より輸送力の大きい交通手段が求められた。
しかし当時のバスは性能が悪く、厳しい上り坂を登れるだけの力を持っているかどうか定かではなかった。路面電車も鉄車輪のため坂には弱い。そのため一部の国で導入されており、急勾配に強いと考えられていたトロリーバスを建設することにしたのである[6]。田中自身は運輸業の知識に疎かったため、高野登山鉄道の経営に参加していた宇喜多秀穂を経営陣に迎えている。
当時の軌道事業を管轄していた内務省は、初の例ということで困惑したと言われる[7]。しかし1927年には認可が下り[8]、翌年開業させた。社名もこのとき日本無軌道電車[9]と改められた。トロリーバスは新花屋敷の約700m手前のところまでの運行で、途中のつつじが丘(現在の宝塚市花屋敷つつじガ丘)が行き違いを行う交換所となっていた。方向転換は起点の花屋敷停留所ではスペースの関係で転車台を用い、終点の新花屋敷停留所ではループ線を使用し、終点には他に待合室と車庫があったという。道路は未舗装であったため、トロリーバスの通る中央部のみ舗装された。電力は親交の深かった阪神急行電鉄から供給を受けた。車両は日本輸送機製作所(現在の三菱ロジスネクスト)製の箱型のものが2両で、車体長5.5m、車幅1.89m、車高3.0m、定員28名、奥村電機製の20馬力(PSかHPかまでは不明)直流電動機を2基と、2段変速機を装備しており、タイヤとボールベアリング以外はすべて国産だった。当時の記録によると車体色はワインレッドで屋根が白色、窓下と裾部分に黄色の細い帯が巻かれていたという。
当初は延長も考えられており、第二期区間として満願寺山門まで、最終的には多田神社を経て能勢電鉄多田駅まで達する計画であった。
しかし実際に運行してみると、車体の重さのために舗装に亀裂が入り、それによりソリッドタイヤから振動が伝わって乗り心地が悪いだけでなく、その振動が元で故障も多発するようになる。
その上運賃が高いため、下り坂となる帰路はトロリーバスに乗らずに歩く者もあった。更には昭和恐慌のあおりで来客自体が減ったことから、成績は思わしくなかった。借金に追われた田中は失意のまま1929年に他界し[10]、トロリーバスも1932年1月には運休し、4月に廃線となった。なおこの年、京都市で日本初の都市トロリーバス(京都市営トロリーバス)が開業している。
車両はその後、釣鐘山登山口における公衆便所に転用され、戦後に至るまでしばらく使用された。また軌道跡と架線柱も戦後まで放置されていたが、いずれも現在は撤去されている。