朝日殿
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朝日殿(朝日局)という名は、出身の尾張国朝日村(現在の愛知県清須市)から来ている[2]。
父は杉原家利(高安院)、母は静室院。杉原家次と源七郎[注 2]は兄。七曲殿(浅野又右衛門継室)は、諸系図により姉とも妹ともされ、順序は不明[注 3]。
朝日殿は婿養子の杉原定利[注 4]の妻となり、おね(寧、高台院、秀吉正室)、木下家定、くま(長慶院、三折全友室)、やや[注 1](長生院、浅野長政室)をもうけた。
浅野長勝と七曲殿に子がなかったため、おねとやや[注 1]の2人を養女として出したが、永禄4年(1561年)、おねは秀吉と結婚してしまった。
『平姓杉原氏御系図附言』によれば、朝日殿は、周囲の反対にもかかわらず密かに結ばれた野合であるとして怒り、秀吉との婚姻を生涯認めることはなかったという[3]。『藩翰譜』によれば、おねは前田利家に嫁ぐ予定であったが入婿のように長屋に住み込んだ秀吉の妻となったとし、『杉原氏系図』によれば朝日殿と七曲殿の反対によって結婚を阻まれた秀吉が長勝に頼み込んでおねを養女としてもらって浅野家から嫁ぐという形にしたのだという[4]。
もっとも、晩年は朝日殿と秀吉が和解したのではないかという指摘がある。文禄3年(1594年)正月29日に秀吉の甥である関白秀次が大坂城にいた秀吉に挨拶に赴いた際、七曲殿・朝日殿・播磨御内(小出秀政室)にも進物が贈られたとする『駒井日記』の記述があり、朝日殿は大坂城の秀吉の庇護下に置かれていたことになる[5]。また江戸時代の著作になるものの、『明良洪範』には朝日殿は秀吉から才能を評価されて奥向を任されていたと記されている。この記述が事実であれば、後年の秀吉は彼女を信任していたことになる[6]。
慶長3年(1598年)8月11日、死去。秀吉の死の7日前であった。
戒名は康徳寺殿松屋妙貞大姉。高台寺(康徳寺[注 5]の後身)内の旭雲院に葬られた。後年、家定の三男である日出藩主・木下延俊(孫にあたる)によって、大分県速見郡日出町康徳山松屋寺にも墓が築かれ、供養のための肖像画は県の有形文化財となっている[7]。