朝鮮半島のヒスイ製勾玉
From Wikipedia, the free encyclopedia

本項では、朝鮮半島のヒスイ製勾玉(ちょうせんはんとうのヒスイせいまがたま)について記述する。朝鮮半島では1890年頃からヒスイ製勾玉が確認されており、これまでに800個を超えるヒスイ勾玉が出土している。出土した地域は朝鮮半島の南部から中部にかけてであり、北部からは見つかっていない。朝鮮半島のヒスイ製勾玉のヒスイは、蛍光X線分析、形態的な特徴、そして朝鮮半島内でヒスイ産地が確認されていないことから、日本列島の糸魚川産である可能性が有力視されている。
時期的には3世紀後半から4世紀前半頃のものが最も古く、ほとんどが三国時代の古墳などから出土している。古いものは伽耶地域のものが中心であるが、4世紀末からは新羅の慶州周辺の古墳にヒスイ製の勾玉が副葬されるようになり、特に王陵級の古墳からは、多くのヒスイ製勾玉で飾られた金冠が出土している。朝鮮半島から出土しているヒスイ製勾玉の約6割が慶州から出土しており、新羅が積極的にヒスイ製勾玉を入手していたことが伺われる。また百済の勢力範囲からも、武寧王陵や日本列島系と考えられる古墳などからヒスイ製勾玉の副葬がみられる。古墳への埋葬が行われなくなった後は、寺院の舎利荘厳具として埋納されるようになり、最も新しいものでは8世紀半ばに埋納されたヒスイ製勾玉が確認されている。
古墳時代の日本列島と朝鮮半島の交流の研究史において、玉類の研究ではこれまでヒスイ製勾玉が最も中心的に論じられてきた[1]。
1890年頃から朝鮮半島の金海付近から勾玉が発見されており、金海付近は任那の地域と見なされていたこともあって、勾玉は日本から持ち込まれたものと考えられていた[2]。また朝鮮半島から出土する勾玉の多くがヒスイ製であることは、早い時期から注目されていた[3]。やがて朝鮮半島南部の各地で勾玉が出土するようになり、また19世紀から20世紀初頭の段階では、糸魚川のヒスイ産地は認知されておらず、単純に日本から勾玉が持ち込まれたという説も無理があると考えられるようになった[4]。
八木奘三郎はヒスイ製勾玉の場合、中国大陸から朝鮮半島に持ち込まれたヒスイを原材料として、日本の住民が勾玉を製作したか、または朝鮮半島では日本列島よりもヒスイなどの貴石を重んじたために、日本から特にヒスイ製の勾玉を移出したものであると考えた[5]。いずれにしても八木は古代の朝鮮半島南部は日本の影響下に置かれており、勾玉は日本の影響下にあった証拠であると主張した[6]。

1921年、慶州の金冠塚から出土した金製の冠には57個のヒスイの勾玉が飾られており、金冠塚古墳からは他にも56個のヒスイ製勾玉が出土した。その後、慶州付近の古墳から相次いで多くのヒスイ製勾玉が出土した[7][8]。この当時、ヒスイ産地として知られていたのはミャンマー、雲南省地域であり、ヒスイの原石はミャンマーや雲南省方面から持ち込まれたものと考えざるを得なかった[9]。濱田耕作は朝鮮半島から出土するヒスイ製勾玉の量が多く、しかも優品が多いと指摘して、朝鮮半島でヒスイ勾玉が製作され、日本に持ち込まれた可能性を指摘したが[10]、朝鮮半島でヒスイ勾玉を製作した遺跡が見つかっていないことから、日本で勾玉が誕生したのか、それとも朝鮮半島が誕生の地であるのかははっきりとしないとした[11]。
濱田の説に対しては早速反論が出された。高橋健自は、勾玉が日本以外では朝鮮半島南部のみで出土しているとして、朝鮮半島南部は古墳時代、日本の領土の一部であったので勾玉が日本から朝鮮半島に伝わったことは明らかであると主張した[12]。後藤守一も、朝鮮半島南部の古墳から多数の勾玉が出土したことによって勾玉の日本起源説が揺らぐことは無く、朝鮮半島南部が古代、日本の服属地であったことは国史上明らかであり、朝鮮半島の古墳からの勾玉の発見は、文化のみならず政治的にも倭王権に包摂されていたことを証拠立てていると論じた[13]。また後藤は、ヒスイが東洋では主にミャンマーや雲南地方から産すること述べた上で[14]、朝鮮半島南部や日本の各地から多くのヒスイ製の勾玉が出土していて、中には原始時代に遡ると考えられるものがあるのにも関わらず、ミャンマーや雲南からヒスイを持ち込む際に通過すると考えられる中国大陸本土に、ヒスイ関連の考古学的遺物が少ないのは不可解であるとして、日本国内、ないしシベリア方面に未知のヒスイの産地がある可能性を指摘した[15]。
1939年、姫川支流でヒスイの大岩が発見されたとの論文、「本邦における翡翠の産出及び其科学的性質」が発表された[8]。糸魚川周辺でヒスイ原石が再発見されたことは、『考古学雑誌』1941年5月号に発表された「我国の硬玉問題に就いて」によって考古学会に紹介された[16]。後藤守一は、ヒスイが縄文時代から日本で使用されていたこと自体が大きな問題であるとして、ヒスイが日本国内で産出することが判明したことを紹介した[17]。さらに後藤は縄文時代の人々は優美なヒスイを愛好していたとして、彼らも「日本人」であり、縄文時代が人知未開の時代であるとはとても言えないと主張した[18]。
斎藤忠は、朝鮮半島から出土する勾玉は古い形式のものが見られず、形の整ったものが多く、また冠を多数の勾玉で飾るなど、勾玉の使用方法が日本とは異なっていることを指摘した上で、勾玉自体が日本からもたらされたものであると考えた[19]。また梅原末治も、やはり慶州の金冠塚古墳から出土した金製の冠にヒスイの勾玉が飾られているのを例に挙げて、朝鮮半島南部から多く出土する勾玉は、日本から出土する勾玉の中でも古い形式のものが無く、年代的にみても日本の方が古くから勾玉を使用していたのは明らかであるとし[20]。さらに梅原は倭王権の勢力圏内にあった朝鮮半島南部から出土することからも、日本からのものであるのは動かない事実であると述べている[21]。斎藤や梅原の見解は、任那日本府に代表されるように、大和朝廷による朝鮮半島への進出が行われていたとする、当時の日本における歴史学の見解が反映されていた[22][注釈 1]。
その後、古代に日本の政治勢力が朝鮮半島に進出していたとの見解への疑問が広まる中で、交易活動の中でヒスイ製の勾玉が朝鮮半島南部に広がっていったのではないかという説が唱えられるようになった[22]。一方、大韓民国では日本の見解とは異なる意見が出されるようになった[23]。朝鮮半島では南部ばかりでなく、北部の咸鏡道からも出土していることを指摘しながら、紀元前8世紀から紀元前2世紀頃に中国の遼寧省付近に広まっていた「遼寧青銅器文化」が勾玉の源流であり、そこから青銅器とともに勾玉の原型が朝鮮半島にもたらされ、朝鮮半島で勾玉となり、その後、日本列島に広まったとの説が唱えられるようになった[24]。
分布と年代

朝鮮半島でこれまで確認されているヒスイ製玉類の形態は勾玉に限定されている。また、ほとんどのヒスイ製勾玉は三国時代の古墳などから発掘されている[25]。
確認されている朝鮮半島で出土したヒスイ製勾玉の総数は、確実性に欠ける資料を含めると863個から871個の間であり、古墳などヒスイ製勾玉が出土した古墳群などの遺跡は総計92か所、埋葬施設は198か所である[26]。韓国国内での出土状況は、慶尚南道、慶尚北道、全羅南道、全羅北道、忠清南道、忠清北道と、南部のみならず中部の忠清道にも及んでいる[27]。金海、釜山、慶州、高霊、公州などからは10個以上のヒスイ製勾玉が出土しており、中でも慶州が全体の出土数の約6割を占める。これは慶州にある新羅王陵クラスの古墳から、冠に装着された形などで大量に出土しており、さらに慶州の古墳群からも多数のヒスイ製勾玉が出土しているためである[26]。
朝鮮半島から出土したヒスイ製勾玉の中で、古代、伽耶地域であった釜山から出土した3世紀後半から4世紀前半のものが年代的に最も古いと考えられており、釜山に近い金海、馬山、晋州からも4世紀前半頃と考えられるヒスイ製勾玉が出土している[27][28]。一方、朝鮮半島におけるヒスイ製勾玉の多くが出土している新羅地域の慶州では、最古のものは4世紀末ものであり、出現自体は早くない。慶州では5世紀半ばから王陵級の古墳に大量のヒスイ製勾玉が副葬されるようになる[29]。その後6世紀半ば頃までの約100年間、慶州の王陵級古墳に数多くのヒスイ製勾玉が埋納された[注釈 2][31]。全羅道、忠清道から発掘されたヒスイ製勾玉は、4世紀末頃から5世紀初頭からのものが確認されており[29]。5世紀前半期からは百済の勢力圏内でのヒスイ勾玉埋納が確認されている[32]。百済の武寧王陵からは16個のヒスイ製勾玉が出土しており[32]、百済地域では韓国国内の前方後円墳など、日本列島系と考えられる古墳からのヒスイ勾玉の出土が多いことも注目されている[32]。なお、三国時代の残りの構成国家である高句麗の領域からは、これまでヒスイ製勾玉は出土していない[33]。
古墳の副葬品として最も新しいと考えられるヒスイ製勾玉は、7世紀代の慶州の古墳から出土したものである[29]。その後、ヒスイ製勾玉は寺院の舎利荘厳具として埋納されるようになった[34]。最も新しく埋納されたと考えられているのは、慶州の仏国寺の石塔舎利孔に納められていたヒスイ製勾玉であり、8世紀半ば頃に納められたものであると考えられている[29]。古墳の副葬品としての利用が無くなっていく中で、寺院の舎利荘厳具として埋納されるようになる流れは、日本列島のヒスイ製玉類の利用の変遷と類似している[35]。
分析
1986年に韓国で発表された崔恩珠著の論文、『韓国曲玉の研究』では、ヒスイ製勾玉研究に新たな手法を採用した[36]。崔は崇実大学博物館所蔵のヒスイ製勾玉19個に蛍光X線分析という科学的手法による分析を実施し[36]、検出された微量元素の組成が日本列島産のヒスイ、ミャンマー産のヒスイとは異なっているとの結果が出た。そこで崔は朝鮮半島出土のヒスイ製勾玉のヒスイは、その存在が忘れ去られた朝鮮半島内のヒスイ産地のものであると推定した[37]。崔はヒスイの利用自体は日本列島が起源であるが、日本列島から朝鮮半島にヒスイ利用の風習が伝わったと考え、古代日本列島と朝鮮半島との間でヒスイの交易はあったかもしれないが、基本的に朝鮮半島では地元産のヒスイを利用したとの結論を出した[37]。崔と同様の結論を韓国の研究者である金元龍も主張し、日本列島でのヒスイ利用に刺激を受けて三国時代に入ってから、伽耶、新羅が朝鮮半島内でヒスイ産地を開発して、利用を開始したものであるとした[38]。
日本では蛍光X線分析により、まずヒスイ製勾玉などの日本列島内で発掘されたヒスイ製品の分析が進められた。分析の結果、発掘された国内のヒスイ製品は全て糸魚川産のものであることが示された[39]。その一方でミャンマー産のヒスイと日本の糸魚川産のヒスイとでは、微量元素の含有が重なる部分があって、安易な断定は禁物であるとの意見も出された[40]。崔が分析したヒスイ製勾玉は大学博物館所蔵のものであり、朝鮮半島の遺跡から発掘されたことが明らかなものではなく、また日本側と同一の条件での科学分析ではないため、分析結果の信憑性に疑念があり、やはり慎重な判断が求められるとの意見がある[注釈 3][40]。
1997年、韓国と日本の古墳から発掘された、それぞれ2個のヒスイ製勾玉の蛍光X線分析が行われた[42]。分析の結果、ともに日本列島産のヒスイを使用している可能性が高いとの結果が出た[43]。その後の韓国国内で発掘されたヒスイ製勾玉の蛍光X線分析でも、糸魚川産のヒスイが使用されているとの結果が出されている[44][45]。
また、ヒスイ製勾玉の形態面からの分析も行われている。日本列島と朝鮮半島から出土したヒスイ製勾玉の多くは、丁子頭勾玉といって勾玉の頭の部分に数本の溝が刻まれているタイプである[46]。丁子頭勾玉は日本列島では弥生時代中期から確認されているが、朝鮮半島では日本列島よりも遅れて、三国時代になってから確認されるようになり、新羅の王陵級の古墳から発掘された金冠にも数多く用いられている[46][47]。このことからも朝鮮半島のヒスイ製勾玉は、日本列島から持ち込まれたものではないかとの考察がなされている[35]。そしてヒスイ製勾玉の穴の穿孔方法についても、日本列島では古墳時代前期末から中期初めまでは太めの石製工具で片面ないし両面から穿孔していたが、古墳時代中期初め以降は、細めの鋭利な石製工具で片面穿孔されるようになり、この流れは朝鮮半島出土のヒスイ製勾玉でも同様なことから、やはり日本列島からヒスイ製勾玉が持ち込まれたのではないかとの考察がある[48]。
