木満致

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木 満致(もく まんち)は、『百済記』や『日本書紀』に伝わる5世紀頃の百済官人

百済将軍の木羅斤資の子で、百済の国政を執ったとされる。

出自の木氏(もくし)は、『隋書』百済伝において百済の大姓八氏の1つに挙げられる氏族である[1]

日本書紀応神天皇25年条によると、百済の直支王(第18代腆支王)が薨じてその子の久爾辛(第19代久尓辛王)が即位すると、王が幼少であったため木満致が政治を行なった。しかし満致が王の母と密通などをはたらいたため、応神天皇が満致を召し出したという[2]

同条では続けて『百済記』(百済三書の1つ:非現存)の記述を引用する。その中で、木羅斤資新羅を討った際にその国の女を娶って生んだ子が木満致であるとする。そして父の功によって任那の政治を行なったほか、百済・日本の間を往来して日本の朝廷の命を受けているとして百済の政治を執り、君主のような権勢を誇った。しかしその暴政が日本に聞こえたため、日本の朝廷に召し出されたという[2]

なお『三国史記』「百済本紀」蓋鹵王21年(475年)条では、高句麗からの攻撃を受けた蓋鹵王(第21代王)が南方に王子(第22代文周王)を送ったとするが、王子に同行した中に「木刕満致」の名が存在する。これと木満致とを同一人物とする説がある一方[3]、年代が大きく隔たるため別人とする見解が強い[4][1][5]

考証

脚注

参考文献

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