末吉吉安
江戸時代初期に朱印船貿易で活躍した大坂の豪商
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家系

戦国時代に当時自由都市の摂津平野を合議制で統治した平野七名家の人。平野七名家は、初代征夷大将軍坂上田村麻呂の息子で平野を開発した坂上広野麻呂の家系で、坂上宗家の庶流にあたる。
末吉家を名乗った末吉利方(平野勘兵衛利方)の孫である[7]。子あるいは養子の説もある[6]。「銀座」の設立を家康に提言した人物であり、千利休とも親しく交流があった。
末吉家には、平野の惣年寄を世襲した本家の東末吉家(太郎兵衛家)と、利方が興した分家の西末吉家(勘兵衛家、孫左衛門家)とがあるが、吉安は西末吉家の家系である。西末吉家は平野を含めた一帯の代官・旗本でもあり、商人でありながら摂河泉三万石の領地を有した[8]。
名前
生涯
元亀元年(1570年)生誕。父・利方が設立した銀座の頭取の一人として、徳川家康の庇護のもとで銀貨の鋳造事業を主導した[14]。利方の長男・藤四郎利長は吉安より先に死去しており、利方も1607年(慶長12年)に82歳で死去したため、吉康が37歳で吉安が西末吉家の家督を継ぎ、平野の惣年寄となった[2][3][4][5][7]。同年4月に第一次朝鮮通信使が大坂を訪れた際には、吉安は大坂城主・豊臣秀頼の代官である片桐貞隆の補佐として御馳走役を務めた[7]。
1608年(慶長13年)、吉安は伏見銀座を京都市中の両替町へ移転させ、大坂には出張所(大坂銀座)を設けた[7][6][7]。吉安が別邸を構えた現在の大阪市中央区本町付近一帯は、当時「末吉孫左衛門町」と呼ばれた[7]。
1614年(慶長19年)の大坂冬の陣においては、吉安が豊臣方ではなく徳川家康に与したことから、豊臣方は平野を焼き払うという報復を行った(平野焼き討ち)[7]。吉安が家康の命を受け、徳川方の軍勢を京都から平野へと先導する最中であった[7]。その後、徳川家康は住吉大社に、徳川秀忠は全興寺にそれぞれ本陣を構え、吉安はこれら本陣の普請工事を担った[7]。翌1615年(元和元年)の大坂夏の陣においても、吉安は平野に置かれた秀忠本陣の普請を引き受けた[7]。なお、同じ平野七名家の家系でも、道頓堀を開削し名前の由来となった成安道頓は、豊臣方で大坂城に籠城し、討ち死にしたとされている。
両陣の直後、吉安と利方の甥にあたる平野藤次郎政次は、幕府より河内国志紀郡・河内郡の代官に任ぜられ、旗本としての身分を保証された[1][2][5][6][7][13][12]。正保年間(1644 - 1648年)頃の記録によれば、吉安と政次が統治した領域は合計3万石・51カ村あるいは5万石に及んだ[7]。
1617年、大坂で死去[7]。墓は高野山蓮花定院にある[7]。
吉安が東横堀川に架設したとされる橋は、数度の架け替えを経た現在も末吉橋と呼ばれている。末吉孫左衛門町の町名は江戸時代のうちに牧九郎兵衛町と統合されて長堀橋本町となったが、1872年から1982年まで末吉橋通1丁目となっていた(現在の大阪市中央区南船場1丁目の一部)。
功績
末吉船

吉安は豊臣政権期の1596年(文禄5年)から継続して朱印状を与えられており、江戸幕府の重臣土井利勝、酒井忠世、本多忠勝や金地院崇伝(以心崇伝)らとも親しく、1601年(慶長6年)徳川家康によって朱印船貿易が正式に制度化された後も、継続して渡航を行った。1608年(慶長13年)には吉安自らシャムに渡航している[7][1][2][5]。
このような末吉家による朱印船貿易は末吉船(すえよしぶね)と称され、1604年(慶長9年)から1634年(寛永11年)の30年間に大坂から派遣された朱印船22船のうち、過半の12船が吉安と長男・長方による末吉船であり、吉安が7回、長方が5回の渡航を担った[7][注 1]。 先代の利方から継承した廻船業が朱印船貿易の費用を支えていて、主に呂宋(ルソン)や東京(トンキン)など、インドシナ・フィリピンや暹羅(シャム)・越南といった東南アジア方面を主眼において貿易を行っていた[1][2][3][4][5][6][7][13][12][14]。
清水寺には末吉船の渡航祈願および航海の無事への感謝として奉納された末吉船の絵馬が現存しており、1633年(寛永10年)の奉納とされる[1][5]。絵馬には主に、トンキン(東京)からの帰国船が描かれている[1]。