本田延三郎
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明治41年、北海道函館市生まれ。4歳で父を失う[3]。1925年、函館商業学校卒業後、弁論部の先輩八木隆一郎を頼って上京、東京左翼劇場に入団、小道具係となる[3]。1930年代に盛んだったプロレタリア演劇運動に入る。1934年新協劇団に入団、日本プロレタリア劇場同盟 (プロット)書記長も務め、治安維持法で3回逮捕され、通算3年半を獄中で暮らす[3]。小林多喜二と同時期に収監され、多喜二の拷問死は本田の「自白」に基づくものではないかと噂されたが、本田自身は終生弁明しなかった[4]。
戦後は、俳優座などの経営に関わる。1952年より1970年まで劇団青俳を経営。1971年、演劇プロデュースの五月舎設立[3]。1976年、第6回日本新劇製作者協会・協会賞[5]、1981年、多年にわたる演劇プロデュースの業績に対して、第16回紀伊國屋演劇賞特別賞[6]を受賞。
1995年3月18日、心筋梗塞のため東京都狛江市の東京慈恵会医科大学附属第三病院で死去[2]。
