李回

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李 回(り かい、生没年不詳)は、唐代宗室官僚政治家。もとの名は躔。は昭度[1][2]

李如仙の子として生まれた。長平郡王李叔良の末裔にあたる。長慶元年(821年)、李躔は進士に及第し、さらに賢良方正科に登第した。義成軍節度従事を初任とし、淮南節度掌書記となり、監察御史を加えられた。長安に入って京兆府戸曹参軍となり、司録参軍に転じた。入朝して左補闕・起居郎となり、宰相の李徳裕に認められた。職方員外郎に任じられ、判戸部事をつとめた。吏部員外郎となり、判南曹をつとめた。刑部員外郎・知御史台雑事に転じた。開成元年(836年)、庫部郎中知制誥となり、中書舎人に任じられた。開成5年(840年)、武宗が即位すると、李躔は武宗の諱を避けるため、回と名を改めた。李回は工部侍郎に任じられた。戸部侍郎となり、判戸部司事をつとめた。会昌3年(843年)、御史中丞を兼ねた[3][4]

劉稹潞州に拠り、昭義軍節度使の位を求めたが、朝廷はこれを認めず、問罪の兵を加えた。武宗は劉稹が河朔三鎮と連合して反抗することを恐れて、李回に命じて河朔への使者として送った。魏博節度使の何弘敬と成徳軍節度使の王元逵はいずれも武装して李回を迎えた。李回は魏博軍と成徳軍に山東3州を奪回するよう求める武宗の意志を伝えると、何弘敬と王元逵は命に従った。ときに盧龍軍節度使の張仲武と河東節度使の劉沔回鶻を攻撃したが、両者は仲が悪く、連係を欠いた。李回が勅命を受けて幽州に赴き、和解するよう諭すと、張仲武は恨みを解いた。劉沔は滑州に移され、張仲武は太原府の軍を率いて潞州を攻撃した。会昌5年(845年)、李回は本官のまま同中書門下平章事(宰相)となり、中書侍郎を加えられた。門下侍郎に転じ、戸部尚書吏部尚書を歴任した[5][6]

会昌6年(846年)、武宗が死去すると、李回は山陵使をつとめた。大中元年(847年)、成都尹・剣南西川節度使として出向した。大中2年(848年)、李徳裕と仲が良かったことから、潭州刺史・湖南都団練観察使に左遷された。まもなく太子賓客・分司東都となった。また賀州刺史に左遷され、撫州長史に移された。白敏中令狐綯が宰相から退任すると、李回は入朝して兵部尚書となった。再び成都尹・剣南西川節度使として出向した。のちに死去した。司徒の位を追贈された。は文懿といった[5][6]

脚注

伝記資料

参考文献

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