李園

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李 園(り えん、? - 紀元前228年)は、中国戦国時代末期の政治家の人で、春申君舎人から楚王家の外戚となり、外甥の幽王の時代に楚の政治を牛耳った。

当代の考烈王には嗣子がなかったため、令尹の春申君はこれを憂慮し、多数の女性を献上したがついに子は生まれなかった。李園は妹の李環[1]を考烈王に薦めようと思ったが、子を成せない事を知ると取り止めた。そこで李園は春申君に仕えることにし、一計を案じて李環を春申君に献じるとたちまち李環は寵愛された。やがて李環が春申君の子を身籠もると、李園は李環と謀略を練り、李環は春申君にこう説いた。

「王には子がありません。もし王が崩御された後には、王の兄弟が立つことになり、それぞれが親しい者を重用するでしょう。君(春申君)は高位の地位にあって政務を執って久しく、王の兄弟たちに対して多くの非礼があったことでしょう。もし兄弟が王に立てば、身に災いが及び、どうして令尹の印綬と封地を保つことができるでしょうか? 今、妾が身籠っていることは誰も知りません。妾を王に献上していただければ、王は必ず妾を寵愛することでしょう。妾が天の加護により男子を生めば、これは君の子が王となることであり、楚の全てを得ることができます。測り知れない罪に臨むのと、果たして比べられましょうか?」

春申君は大いに得心し、李環を考烈王に献上した。目論見通りに考烈王は李環を寵愛し、やがて男子の悍(幽王)が生まれると太子に立てられて李環は王后となり、それを背景に李園は政治に参与するようになった。

後に李園は春申君が秘密を漏らすことを恐れ、密かに死士(刺客)を養成し、春申君の殺害を計画した。この計画は楚国内ではほとんど周知となっていたが、春申君は李園を軽視していたので取り合わなかった。

考烈王25年(紀元前238年)、考烈王が崩御すると、李園は先んじて宮中に入り、棘門(城門の名)に潜伏させた死士に春申君を襲撃させて刺殺し、その一族も皆殺しにした。太子悍(幽王)が即位すると李園は外戚として楚の実権を握ることとなった。

幽王10年(紀元前228年)、幽王が逝去し、同母弟で遺腹子の猶(哀王)が楚王に即位したものの、在位2ヶ月ほどで哀王の庶兄[2]負芻の一派に母の李環共々殺害され、李園とその一族は皆殺しにされた。負芻らは幽王が考烈王の子でないことを知り、哀王の王統を疑ったのだという。

逸話

脚注

参考文献

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