李景倹
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貞元15年(799年)、進士に及第した。その性格は英俊明朗で、博覧強記であり、史書をよく読んで、王朝の興亡に詳しかった[1][2]。
韋執誼や王叔文が皇太子李誦に仕えると、景倹はかれらに重んじられ、管仲や諸葛亮にたとえられた。貞元21年(805年)、順宗(李誦)が即位して、王叔文が政権を掌握したとき、景倹はちょうど母の喪に服していたため、王叔文の失脚に連座せずに済んだ。韋夏卿が東都留守となると、景倹は召し出されてその下で従事をつとめた。竇羣が御史中丞となると、景倹は召し出されて監察御史となった。竇羣が罪により左遷されると、景倹は連座して江陵府戸曹参軍に左遷された。元和13年(818年)、忠州刺史に累進した[1][2]。
元和14年(819年)、景倹は入朝した。宰相に憎まれて、澧州刺史として出向した。景倹は元稹や李紳と仲が良く、かれらがたびたび穆宗に推薦したため、倉部員外郎に任じられた。1月あまりして、諫議大夫に転じた[3][2]。
景倹は自負心が強く、公卿や大臣を侮蔑しており、酒が入るとその放言は酷くなった。蕭俛や段文昌がかれを訴えたことから、景倹は建州刺史に左遷された[4][2]。長慶元年(821年)[5]、元稹の進言により、景倹は召還されて、再び諫議大夫となった[4][2]。
その年の12月、景倹は朝廷から退出すると、馮宿・楊嗣復・温造・李肇・王鎰・独孤朗らとともに史館で飲酒した。景倹は悪酔いして中書を訪れて宰相に面会し、王播・崔植・杜元穎の名を呼び、かれらの欠点を述べ立てて侮辱した。この事件のため漳州刺史に左遷された[4][2]。
景倹が漳州に着任しないうちに、元稹が宰相となると、楚州刺史に転任した。召還されて少府少監に任じられた。志を得ないまま、死去した[4][2]。