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松殿基嗣

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生誕 建久3年(1193年)
死没 不明
 
松殿 基嗣
時代 鎌倉時代
生誕 建久3年(1193年)
死没 不明
官位 正二位権大納言
主君 土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇
氏族 松殿家
父母 父:松殿師家
母:藤原隆房の娘
兄弟 基嗣実嗣、澄快、承澄、勝尊、澄空、慈弁、覚修、道源、勧誉、房性
正室:平光盛の娘
基定勝円、乗基、女子(良忠母)
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松殿 基嗣(まつどの もとつぐ、建久3年(1193年) - 没年不詳)は、鎌倉時代公家摂政内大臣松殿師家の長男。官位正二位権大納言

建久3年(1193年)に前摂政内大臣松殿師家の息子として生まれる。師家は寿永2年(1183年)平家西走と源義仲の上洛の混乱期に短期間摂政となっていたが、源義仲の滅亡に伴い失脚していた。

後鳥羽院政期中期の元久元年(1204年)元服し、摂関家の庶子格である従五位上に叙せられ、侍従に任官。元久2年(1205年) 正月に左近衛少将に任ぜられると、同年中に正五位下・左近衛中将、元久3年(1206年従四位下建暦元年(1211年正四位下と近衛次将を務めながら昇進する。

建暦3年(1213年従三位に叙せられて公卿に列し、引き続き中将を兼帯した。建保6年(1218年権中納言に昇進。承久元年(1219年正二位への叙位を経て、承久3年(1221年承久の乱では後鳥羽上皇側に付かなかったらしく、乱後の10月になって中納言に昇進している。元仁元年(1224年権大納言に至った。

寛喜4年(1232年)3月16日、基嗣は、平光盛の娘で邦子内親王に仕える女房が日吉社に参詣する途上を待ち伏せ、数騎の軍勢で取り囲み連れ去るという蛮行に及び、3月29日に権大納言を解任された。このとき、父の松殿師家は天王寺の別荘から急ぎ上洛して謝罪したが、藤氏長者であった関白九条道家は「一門之恥辱唯在此事」であるとしてこれを許さなかった(『民経記』)[1]

基嗣は二度と官職に復帰することはなく、仁治4年(1243年)2月に出家。基嗣の子息も公卿になる者はおらず、師家の子孫は断絶した。

官歴

公卿補任』による。

松殿基嗣の官歴表
和暦(西暦) 月日(旧暦) 年齢[注釈 1] 事項
元久元年(1204年4月22日12歳従五位上に昇叙
10月26日侍従に任ぜられる
元久2年(1205年1月29日13歳左近衛少将に任ぜられる
3月10日禁色を聴される
8月9日正五位下に昇叙
11月29日左近衛中将に転任
元久3年(1206年1月13日14歳伊予介
1月17日従四位下に昇叙、左中将如元
承元2年(1208年1月5日16歳従四位上に昇叙
建暦元年(1211年1月18日19歳播磨介
1月23日正四位下に昇叙
建暦3年(1213年1月6日21歳従三位に叙せられ、左中将如元
建保3年(1215年1月5日23歳正三位に昇叙
建保4年(1216年1月5日24歳従二位に昇叙
建保6年(1218年12月9日26歳権中納言に任ぜられる
承久元年(1219年4月8日27歳正二位に昇叙
承久3年(1221年閏10月10日29歳中納言に転任
元仁元年(1224年12月25日32歳権大納言に任ぜられる
貞永元年(1232年3月29日40歳解却(有事故云々)
嘉禎4年(1238年10月4日46歳服解(父喪)
仁治4年(1243年2月51歳出家

系譜

脚注

参考文献

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