松殿師家
平安時代後期の公卿
From Wikipedia, the free encyclopedia
松殿 師家(まつどの もろいえ)は、平安時代後期の公卿。関白・松殿基房の三男。官位は正二位・内大臣、摂政。
|
松殿師家像(『天子摂関御影』、紙本着色より) | |
| 時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代前期 |
| 生誕 | 承安2年6月20日(1172年7月12日) |
| 死没 | 嘉禎4年10月4日(1238年11月11日) |
| 改名 | 師家→大心(法名) |
| 別名 | 松殿摂政[1]、松殿摂政関白[2]、松殿小殿[3]、松殿小殿下[4]、天王寺殿[5]、カルノ大臣(借の大臣、迦留大臣)[6] |
| 戒名 | 天王寺 |
| 官位 | 正二位、摂政、内大臣 |
| 主君 | 高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇 |
| 氏族 | 松殿家 |
| 父母 | 父:松殿基房、母:藤原忠子(藤原忠雅の娘) |
| 兄弟 | 藤原隆忠、藤原家房、藤原伊子、師家、仁慶、行意、実尊、承円、忠房、壽子、兼寛、道弘、聖尊、尊誉、尊澄、良観、一条高能室、八条院女房西御方 |
| 妻 | 藤原隆房の娘、北条時政の娘 |
| 子 | 基嗣、実嗣、澄快、承澄?、勝尊、澄空、慈弁、覚修、道源、勧誉、房性 |
経歴
母方の花山院家は後白河院・平清盛の双方と繋がりがあり、両者の勢力均衡の上に立って大きな影響力を保持していた。その花山院家への配慮から、父・基房は師家を三男ながら正嫡として遇しており、治承3年(1179年)には僅か8歳にして権中納言に補任される。しかし、これは師家の従兄である近衛基通を超越しての昇進であり、摂関家の正統な後継者を基通から師家に変更することを意味する措置であった。基通の父近衛基実は平清盛の娘の平盛子と婚姻しており、基実の死後は盛子を名義人として清盛が摂関家領を管理していた。盛子の死後はやはり清盛の女婿である基通を通じて摂関家領の管理を継続することを望んでいた清盛がこの人事に激怒したことが、治承三年の政変のもっとも重大な契機となった。基房・師家父子は官職を奪われ、基房は出家に追いこまれた。基房が務めていた関白には基通が補任された。
4年後の寿永2年(1183年)、平家西走と源義仲の上洛という局面を迎えると、基房は失地回復のための行動に打って出る。娘(藤原伊子とされる)を義仲の正室として差し出して姻戚関係を結び[7]、同年11月、摂政基通を解任し、僅か12歳の師家を後任の摂政とした。
しかし翌年1月、源範頼・義経らと戦って義仲が滅亡すると、基房一族は再び失脚してしまう。師家は在任数ヶ月にしてその地位を失って退隠し、以降半世紀近くに渡り官に復することもなかった。この間、神童の誉れ高かった外甥の道元を養子に迎えて失地回復を図ったと言われるが、失敗に終わっている。[要出典]
歴史学者の樋口健太郎は、松殿家が没落した原因として、師家がわずか12歳で摂政への任命と解任を経験したことで政務や儀式を実践する機会を喪失してしまったこと(基房による余りにも拙速すぎた地位の継承)、基房没後の師家と異母弟松殿忠房およびその母(藤原行雅の娘)との確執による内紛(この結果、忠房は大納言を解任されている)、寛喜4年(貞永元年/1232年)3月に息子の基嗣が安嘉門院に仕える女房(平光盛の娘)を連れ去るという事件を起こしたこと(九条道家は「一門之恥辱唯在此事」と憤って基嗣を権大納言から解任する)を挙げている[8]。基嗣の事件の直後、師家も出家している。
道元伝における「松殿」の比定
道元の主要な伝記(『建撕記』、『初祖道元禅師和尚行録』、『永平寺三祖行業記』等)には、幼少期の道元を猶子に迎え、摂関家の重職を継がせようとした「松殿」と呼ばれる人物が登場する。この人物の比定については、古くから松殿基房とする説が広く流布していたが、江戸時代に面山瑞方が詳細な年代的考証を行い、松殿師家であると結論づけている[9]。
誤認の淵源
伝統的な伝記類において、この「松殿」は長らく摂政・関白を務めた松殿基房であると解釈されてきた。この誤認の直接的な契機となったのは、宇治・興聖寺の住持であった懶禅舜融が寛文13年(1673年)に撰述した『日域曹洞列祖行業記』である[9]。同書の「松殿禅閣」という記述の下に「摂政九条基房公也」との割注が付されたことで、後世の伝記や面山瑞方自身の初期の著作(『永平実録』など)もこれをそのまま引用し、定説として扱われることとなった[9]。
なお、該当人物の呼称について、『建撕記』では単に「松殿尊閣」とだけ記されており、記述そのものに誤りはなかった。『日域曹洞列祖行業記』では「松殿禅閣」、『三祖行状記』(大乗寺本)では「松殿禅定尊閣」、『永平寺三祖行業記』(続群書類従本)では「松殿禅定尊閤」と記されている[10][注釈 1]。
面山瑞方による史料考証
のちに面山瑞方は『訂補建撕記』において、複数の史料を交差比較し、基房説を明確に否定して師家説を確立した。その論証の要旨は以下の三点に集約される。
- 基房の年代的矛盾
基房が右大臣から左大臣に転じたのは長寛2年(1164年)であり、仁安3年(1168年)には摂政を兼ねている。また治承3年(1179年)には大宰権帥に左遷され、備前国へ流罪となって出家し善観と号している[11]。これらはすべて、道元が誕生した正治2年(1200年)よりも20〜30年以上前の出来事である。道元が比叡山に登った建暦2年(1212年)頃、基房はすでに出家して70歳近い高齢であり、彼が道元を猶子にして摂関家の重職に就かせようとしたとする説は、明らかな時代錯誤となる。
- 師家の年代的妥当性
師家は寿永2年(1183年)当時12歳で内大臣・摂政となっていることから、承安2年(1172年)の生まれと逆算できる。また『吾妻鏡』暦仁元年(1238年)10月4日条には「松殿禅定殿下師家、於天王寺薨云々」とあり、享年を67歳と算定できる[注釈 2]。この生没年に基づけば、道元が12、13歳で出家を志した建暦2年(1212年)当時、師家は41、42歳の壮年期にあたる[12]。したがって、摂関家を代表して道元に元服を促し、重職に補おうとする立場として年代的に極めて自然である。
- 「松殿」という呼称の継承
『山城名勝志』洛陽部によれば、承安3年(1173年)12月16日に関白が松殿(京都烏丸)の邸宅へ移住したとある[12]。これは師家が生まれた翌年であるため、最初に「松殿」と称したのは基房である[12]。しかし、『尊卑分脈』に見える基房の14人の子息のうち、師家(摂政関白内大臣)や忠房(松殿大納言)も同じく「松殿」を号している[13]。邸宅に由来する称号を子息が継承したため、基房・師家父子が共に「松殿」と呼ばれており、これが後世の伝記編纂者による混同の根本的な原因であった。
面山によるこの緻密な比定は、道元伝における重大な年代的矛盾を解消するものとして高く評価されている。ただし、師家が道元を猶子としたという逸話そのものを裏付ける同時代史料は現在までのところ確認されていない[10]。
関連史料の記述
- 『初祖道元禅師和尚行録』(『続群書類従』第九輯上 伝部 巻225所収)
- 『永平寺三祖行業記』(『続群書類従』第九輯上 伝部 巻225所収)
官歴
| 和暦(西暦) | 月日(旧暦) | 年齢 [注釈 5] | 事項 |
|---|---|---|---|
| 治承2年(1178年) | 4月26日 | 7歳 | 元服、正五位下に叙す、禁色・昇殿を聴される |
| 6月10日 | 左近衛少将に任ず[16] | ||
| 閏6月7日 | 左近衛中将に転任[16] | ||
| 12月24日 | 従四位下に昇叙[17] | ||
| 治承3年(1179年) | 1月19日 | 8歳 | 兼播磨権守 |
| 3月11日 | 正四位下に昇叙 | ||
| 10月7日 | 従三位に昇叙、左近衛中将は元の如し | ||
| 10月9日 | 権中納言に任ず、左近衛中将は元の如し | ||
| 10月21日 | 正三位に昇叙 | ||
| 11月17日 | 解官 | ||
| 寿永2年(1183年) | 8月25日 | 12歳 | 権大納言に転任 |
| 11月21日 | 内大臣に転任、摂政に補す | ||
| 12月8日 | 従二位に昇叙 | ||
| 寿永3年(1184年) | 1月6日 | 13歳 | 正二位に昇叙 |
| 1月22日 | 摂政・内大臣を罷免される | ||
| 貞永元年(1232年) | 9月6日 | 61歳 | 出家(法名:大心) |
| 嘉禎4年(1238年) | 10月4日 | 67歳 | 薨去(号は天王寺) |