松殿忠房
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後鳥羽院政期中期の建仁2年(1202年)元服と同従五位上の叙位を受ける。翌建仁3年(1203年)正五位下・右近衛少将に叙任されると、建仁4年(1204年)従四位下・右近衛中将、元久2年(1205年)従四位上次いで正四位下と近衛次将を務めながら昇進。建永2年(1207年)従三位に叙せられて公卿に列し、引き続き近衛中将を兼帯した。。
その後も、建暦元年(1211年)権中納言、建暦2年(1212年)中納言、建暦3年(1213年)正二位、建保3年(1215年)権大納言と順調に昇進を重ね、元仁元年(1224年)には大納言に昇る。この時点で三条家・西園寺家・大炊御門家等の清華家当主達とは昇進速度はほぼ同じだった。
しかし、寛喜2年(1230年)父・基房が没すると、1年余り後の貞永元年(1232年)3月に突如前関白・九条道家の意向によって、忠房は大納言を解任されている[1]。基房の没後、忠房の母と異母兄の松殿師家はその遺領を巡って対立を続け、最終的には九条教実の裁定で師家が勝訴している。こうした事情から突然の大納言解任は松殿家の内紛に原因があったとする見方もある[1]。
その後、三条実親・西園寺実氏・土御門定通・大炊御門家嗣・徳大寺実基が次々忠房を追い越して大臣に昇進する(彼らのうち、実基以外は権大納言から正官を経ないで昇進している)。寛元4年(1246年)に発生した宮騒動に伴って、翌寛元5年(1247年)正月に一条実経が摂政を罷免されると、忠房は前内大臣・九条基家らととともに摂関の候補者にもなったが[2]、前関白・近衛兼経が摂政に就任し、忠房の摂関就任は叶わなかった[3]。
官歴
『公卿補任』による。
- 建仁2年(1202年) 12月17日:従五位上(元服)
- 建仁3年(1203年) 正月5日:正五位下(臨時)。正月13日:侍従。10月24日:右近衛少将。12月21日:禁色
- 建仁4年(1204年) 正月5日:従四位下(臨時)。正月13日:兼近江権介。4月12日:右近衛中将
- 元久2年(1205年) 正月5日:従四位上。11月29日:正四位下
- 建永2年(1207年) 正月13日:従三位、中将如元
- 承元2年(1208年) 正月20日:兼備前権守。12月9日:正三位
- 承元3年(1209年) 10月30日:従二位
- 建暦元年(1211年) 10月12日:権中納言
- 建暦2年(1212年) 6月29日:中納言
- 建暦3年(1213年) 3月11日:正二位(朝覲行幸賞)、院別当
- 建保3年(1215年) 12月10日:権大納言
- 元仁元年(1224年) 12月25日:大納言
- 寛喜2年(1230年) 12月28日:服解(父)
- 寛喜3年(1231年) 3月25日:辞退(実停任也)
- 貞永元年(1232年) 3月29日:大納言を辞退[4]
- 宝治元年(1247年) 4月15日:出家
- 文永10年(1273年) 3月20日:薨去