林友幸
日本の武士、政治家
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来歴
萩藩士林周蔵と冬子の長男として長門国阿武郡土原(現・山口県萩市)に生まれる。宝蔵院流槍術の十字槍の名手で、「槍の半七」と呼ばれた[1]。文久3年(1863年)奇兵隊の参謀となり、翌年の下関戦争で活躍。慶応4年(1868年)の戊辰戦争でも活躍。新政府の会計官権判事として盛岡藩に派遣され、旧藩体制を解体し新体制への移行を進めるなど行政手腕にも優れたものを見せた。
明治2年(1869年)会計官権判事、盛岡県大参事、九戸県権知事、同3年(1870年)民部大丞兼大蔵大丞、同7年(1874年)内務大丞兼土木頭、同8年(1875年)内務少輔となる。同9年(1876年)明治天皇の北陸巡幸に同行。同13年(1880年)元老院議官、同23年(1890年)7月10日、貴族院議員[2](1900年4月23日まで在任[3])、同年10月20日、錦鶏間祗候となる[4]。明治33年(1900年)枢密顧問官に就任。また富美宮・泰宮の養育主任も務める。同40年(1907年)、84歳で死去した。墓所は青山霊園[5]
栄典
逸話
佐々木高行とは同じ保守派で仲が良かったといわれている。
中川克一著の『近世偉人百話』[18]には、林の逸話として以下のようなものが掲載されている。
- 毎曉600-700回槍を素扱き、御園内を週巡し6時に帰宅すると家人に起床を命じた。一日もこの日課を欠かさなかった。
- 老いて尚壮健であり、「老の身の遭う人ごとに祝はれて、いよいよ長く年や重ねん」と詠んだ。
- 天性慈仁であるとして、戦場では常に両軍の死者の少ないことを祈った。平生謹厳質素であったとことから積財は自ずから巨万にいたり、世の人から福禄寿と呼ばれた。
- 鶯議官と呼ばれた理由として、論壇に登ると「嚠喨たる美音 宛転たる妙調 鶯児の春暁に歌ふが如くなる」ことからだ、と言う人もいたが実際は「険素自ら奉じ平生魚類を食すること甚だ稀に 専ら菜を食ふ故」であるという。同じ項で、「海防費献金の挙あるや率先して数千円を献ず 而かも皆燦々たる金貨なり」と、国家のためにはその財を惜しまず献じたことが記されている。
- 槍の名手であったことから晩年明治天皇の御前で同じく手練として有名だった山縣有朋との試合を命じられた。「双方秘術を尽くして戦うこと数刻 叡感殊に斜ならず」と互いに譲らなかったが、その後休憩所で休んでいる林に人が「山県の手の内誠に見事なり 足下の手答え如何」と聞いたところ、林は冷笑し「彼れ壮年の癖に何ぞ息を切るの甚だしき 恐らくは急場に臨んで何の役にも立たざるべし」と答えた。しかし「友幸自らは息の切れること山県に比して一層甚だしきを知らず」と、自身も息を切らしていたという。
『維新戦没実歴談』では、林の生前最後のインタビュー記事として鳥羽・伏見の戦いについて回想している。伏見奉行所の戦いでは夜中10時に終了し12時に西郷隆盛が「ゴトゴト」とやってきたと語っている。
