栗浦海戦 From Wikipedia, the free encyclopedia 栗浦海戦(くりうらかいせん)は、文禄元年(1592年)6月7日に朝鮮の巨済島・栗浦湾において日本水軍と朝鮮水軍の間で行われた海戦で、文禄・慶長の役における李舜臣の第二次作戦の一環として実施された。 概要 栗浦海戦, 交戦勢力 ... 栗浦海戦 戦争:文禄の役 年月日:文禄元年6月7日(1592年7月15日) 場所:朝鮮国慶尚道巨済島栗浦 結果:朝鮮水軍の勝利 交戦勢力 豊臣政権 朝鮮国 指導者・指揮官 得居通幸 †または不明 李舜臣元均李億祺 戦力 軍船:7隻 ・大船:5隻 ・小船:2隻 軍船51隻 李舜臣:23隻(板屋船21隻・亀甲船2隻) 元均:3隻 李億祺:25隻 損害 大船2隻・小船1隻沈没 大船3隻・小船1隻拿捕 不明 表示 閉じる 海戦の背景 1592年5月29日、23隻を率いて第二次出撃を行った李舜臣は、途中で慶尚右水使・元均の3隻と合流し、泗川海戦および唐浦海戦において日本水軍を撃退した。 さらに後続の全羅右水使・李億祺の25隻と合流し、唐項浦海戦に侵入した日本軍船を大いに撃破した。6月7日、永登浦沖に至り日本船を警戒していたところ、日本水軍の大型船5隻と中型船2隻が栗浦から釜山方面へ逃走するのを発見し、李舜臣は直ちに追撃を命じた[1]。 戦闘の経過 このとき朝鮮水軍は逆風の中でも櫂を急がせて栗浦近海まで追撃し、窮地に陥った日本船は船内の荷物を投棄しつつ陸上へ逃れようとした。戦闘では、虞侯の李夢亀が大船1隻を拿捕し1隻を焼失させたのをはじめ、右斥候将の金浣、左斥候将の鄭運、中衛将の魚泳潭、加里浦僉使の具思稷らが協力して日本船5隻を拿捕または撃破し、多数の日本兵を討ち取った[1]。 形勢不利と見た日本側の将・得居通幸は陸上へ逃れ、切腹したと伝えられる。さらに呂島権管の金仁英と所非浦権管の李英男は敵中へ突入して残存兵を攻撃したとされる[1]。 海戦後の経緯 日本水軍は栗浦湾内へ追い込まれ、最終的に5隻が沈没、2隻が拿捕され、多数の将兵が戦死した。この一連の勝利により、李舜臣率いる朝鮮水軍は泗川海戦・唐浦海戦・唐項浦海戦・栗浦海戦において連続して戦果を挙げ、朝鮮南西海域における主導権を掌握し、日本の輸送・補給路に大きな打撃を与えた[2]。 日本側指揮官について →詳細は「得居通幸 § 没年について」を参照 本項では得居通幸が切腹したと記されているが、その最期については異説があり、唐浦海戦・唐項浦海戦・釜山浦海戦、あるいは文禄3年初頭に戦死したとする説も存在する。なかでも、唐浦海戦において権俊の放った矢により戦死したとする説が有力視されている[3]。 仮に栗浦海戦で戦死していない場合、日本側の指揮官は不明となる。 脚注 [1]“율포해전”. 한국민족문화대백과사전. 한국학중앙연구원. 2026年4月24日閲覧。 [2]이남석 (2023-06). “docu-mentoring 통찰·열정·소통의 리더 이순신(24)_전투하지 않고 승리하는 법”. 더스쿠프 (549): 68-69. https://www.dbpia.co.kr/Journal/articleDetail?nodeId=NODE11532312 2026年4月24日閲覧。. [3]“승전지23 메모리투어 장소5(당포성지)”. 이순신포럼 (2026年2月15日). 2026年4月24日閲覧。 Related Articles