森の兄弟
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森の兄弟(もりのきょうだい、エストニア語: metsavennad, ラトビア語: mežabrāļi, リトアニア語: žaliukai)は、1944年から1956年にかけてラトビア、リトアニア、エストニアのバルト三国においてソビエト連邦に対してゲリラ戦を行ったパルチザン (非正規軍)である。彼らは、第二次世界大戦中および戦後にバルト三国に侵攻し、占領したソビエト連邦軍と戦った[5][6]。同様の反ソビエト組織がブルガリア、ポーランド、ルーマニア、ウクライナ、ガリツィア、ルテニア、ハンガリーでもソビエトの占領に抵抗した[2]。ウクライナパルチザン軍もドイツとソ連双方に対して戦った[2]。
| 森の兄弟 (バルト諸国のゲリラ戦争) | |||||||
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| バルト諸国占領・中欧・東欧における反共産主義の反乱中 | |||||||
リトアニアのパルチザン | |||||||
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| 衝突した勢力 | |||||||
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リトアニアパルチザン ラトビアのパルチザン エストニアのパルチザン | |||||||
| 指揮官 | |||||||
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| 戦力 | |||||||
| 110,000[1] |
55,000[1] | ||||||
| 被害者数 | |||||||
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| リトアニア ソ連に協力した民間人4,000人がパルチザンによって殺害され、リトアニア人・ラトビア人・エストニア人約30万人がシベリアに追放された。[2] | |||||||
赤軍を主力とするソ連軍は1940年6月にバルト諸国へ侵攻し、1941年に占領を完了した。リトアニアは、第二次世界大戦中のドイツ占領を経て、1944年から1945年にかけてソ連に再占領された。占領後、ソ連の政治的弾圧が激化し、バルト諸国のパルチザンが反ソ連蜂起の活動を強めた。パルチザンはエストニアで1万人、ラトビアで1万人、リトアニアで3万人で合計5万人によって組織された。
パルチザンは1956年まで武装闘争を続けたが、パルチザン組織に潜入した秘密工作員を活用したソ連治安部隊によって鎮圧された。しかし、その後もバルト諸国の住民は戦術を変えて市民的抵抗に訴え、1987年から1991年にかけての歌う革命へ至った[7]。
名称
背景
エストニア、ラトビア、リトアニアは、ロシア革命によるロシア帝国の崩壊後の1918年に独立した[10]。ナショナリズムと民族自決の理想は、エストニアとラトビアにとっては13世紀以来初めて独立をもたらした。リトアニアは、14世紀にヨーロッパの強国であり、ポーランド・リトアニア共和国を経て、1795年の第三次ポーランド分割でロシア帝国に編入されてきたが、主権国家として再建した[11]。
ソ連の占領
1939年8月の独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)の秘密議定書で、1940年にバルト三国がソビエト連邦に占領されたが、西側連合国はこの動きを不当とみなした[12]。
独ソ戦
ナチス・ドイツが独ソ不可侵条約を破棄し、バルバロッサ作戦でソ連に侵攻して、独ソ戦がはじまった。これにより赤軍はバルト諸国から追い出され、バルト諸国はドイツ軍の占領下に入った。ドイツはバルト諸国の独立を回復しなかった。一方、英米は大西洋憲章で、民族自決権や領土拡大を認めないなど戦後世界への希望を表明した。ソ連とナチス政権による占領を経験していたバルト諸国の人々は、戦後の占領を望まなかった[13]。
ドイツとバルト諸国パルチザン
エストニアやラトビアではドイツが現地住民を武装親衛隊の外国人義勇兵に徴兵したが、リトアニアには武装親衛隊師団は存在しなかった[14]。
1944年、ドイツはポヴィラス・プレチャヴィチュス将軍の指揮下の2万人の兵力からなるリトアニア領土防衛軍を創設し、リトアニア共産党のアンタナス・スニェチュクス率いる赤軍パルチザンに対抗した。しかしドイツはリトアニア領土防衛軍を民族主義勢力として警戒するようになり、1944年5月プレチャヴィチュスはラトビアのサラスピルス強制収容所に移送された。残存兵力の一部はゲリラ部隊を結成し、独ソ戦の赤軍に対するパルチザン作戦の準備のため地方に移動した[15][16]。
エストニアとラトビアでのゲリラ部隊は、第20SS武装擲弾兵師団(エストニア第1師団)や、1945年にクールラント・ポケットで降伏したクールラント軍集団とも関係がある。エストニアとラトビアのゲリラ兵は世界大戦後も森の兄弟として戦い続けた。
なお、ドイツの武装親衛隊は戦後、戦争犯罪で有罪判決を受けたが、1945-46年のニュルンベルク裁判では、「選択の余地がなく国家によってSS隊員に徴兵された者」は除外されており、バルト諸国のパルチザンはこれに該当する[17]。1950年に米国の難民(強制移住被害者)委員会も、バルト武装親衛隊は、目的、思想、活動、および構成員資格においてドイツ親衛隊とは別個かつ異なるものとしてみなされるべきであると判断した[18]。ラトビア政府は、ラトビア武装親衛隊(ラトビア軍団)は、犯罪組織でも枢軸国の協力組織でもなかったと主張している[19]。
戦後、バルト諸国においては、ソ連による赤軍への徴兵政策に対して、レジスタンス運動は拡大した。徴兵忌避者は森に逃げ込み、多くの兵士が武器を持って脱走した[13]。
エストニア
夏戦争 (1941年)

エストニアでは、独ソ戦中、森の兄弟(Metsavennad)・オマカイツェ・(ドイツ第18軍がソ連軍と戦った。これは夏戦争と呼ばれる。
1941年6月22日のドイツ軍によるソ連侵攻に伴い、ヨシフ・スターリンはラジオで7月3日に放棄予定の地域での焦土作戦を実行すると発表した。これに対して約1万人の森の兄弟は、エストニアの民兵組織オマカイツェを再編成し、NKVD指揮下の殲滅大隊、ソ連第8軍を攻撃し、4,800人を殺害、14,000人を捕虜にした。タルトゥの戦いは2週間続き、市の大部分を破壊した。フリードリヒ・クルグ指揮の下、森の兄弟はソ連軍をタルトゥから追い払い、7月10日までに南エストニアを奪還した[20][21]。NKVDは7月8日の撤退時にタルトゥ刑務所で193人を殺害した。
焦土作戦に加えて、NKVDは敵対者とみなした民間人に対してテロ行為を行った[22]。何千人もの民間人が殺され、多くの建物が放火された。1941年8月、ヴィル・カバラ村では、乳児と2歳の子供を含む、全人口が殺害された。ソ連の殲滅大隊は人々を生きたまま燃やし[23]、1,850人のパルチザンと非武装の一般市民を殺害した[24]。ソ連軍は多くの物資を略奪した[22]。
7月7日から9日にかけてドイツ第18軍はエストニア南部に侵入し、森の兄弟とオマカイツェと協力した。その後、エストニア・ドイツ連合軍は8月28日にエストニアの首都タリンを占領した。ドイツ海軍とフィンランド海軍はソ連軍兵士を撤退させようとしたバルト艦隊を攻撃し、12,000人以上が死亡した(タリン撤退)。ソビエト軍がエストニアから追い出された後、ドイツ北方軍集団は森の兄弟およびオマカイツェを武装解除した[25][22]。
オマカイツェの再召集
1941年8月、南エストニアのパルチザンはオマカイツェの名の下に再び召集された。メンバーは当初、最も親しい友人から選出された。後に、共産主義組織のメンバーではないという誓約書への署名を求められた。エストニア・オマカイツェは、ドイツ占領下の法律に合致する限りにおいて、エストニア防衛連盟およびエストニア国防軍の規則を踏襲した[26]。
「オマカイツェ」の任務は以下の通りであった。
- 国土の防衛
- 空挺部隊、破壊工作、スパイ活動との戦い
- 軍事施設の警備
- 共産主義勢力との戦い
- 警察への協力と国民の安全確保
- 大規模事案(火災、洪水、疾病など)発生時の支援
- 隊員および忠実な国民への軍事訓練の提供
- 愛国心と国民意識の醸成と維持[26]
7月15日にはオマカイツェの隊員数は10,200人だったが、1941年12月1日には40,599人に増加し、1944年2月まで約約40,000人が隊員であった[26]。
エストニアのゲリラ戦 (1944-56)

エストニアでは、1944年から1953年の間に14,000〜15,000人の男性が戦闘に参加した。1944年11月から1947年11月まで、エストニアのパルチザンは773回の武力攻撃を行い、約1,000人のソ連兵とその支持者を殺害した。1947年のピーク時には、組織は数十の村や町を支配し、ソビエトの補給輸送に大きな支障をきたした[27]。
森の兄弟の親族も犠牲になった。強制送還を逃れたエストニア人、タイミ・クライツベルグは、ソ連当局にヴォルに連行されたあと、パルチザンを裏切るまで拷問を受け続け、その後、森の兄弟の親族が所有する農場に連れていかれ、チェキストたちが外で待機している間、食料と宿を提供する扇動者として送り込まれたと回想している[28]。
ラトビアのゲリラ戦 (1944-56)

ラトビアでは、ドイツ占領中にパルチザン作戦の準備が始まったが、部隊の指導者はナチス当局によって逮捕された[29]。
大戦末期には、元ラトビア軍団の兵士と民間人で構成される、より長期にわたる抵抗部隊が形成され始めた[30]。
1944年9月8日、リガで、ラトビア中央評議会(LCC)はラトビア国回復宣言を採択し、事実上の独立を回復することを意図した[31]。LCCの軍事部門であるロバーツ・ルベニス中尉大隊とヤニス・クレリス将軍グループのクレラ・グルパ(クレリエシ)は、武装親衛隊に対する武装抵抗を行ったが、1944年11月にSSと親衛隊保安部(SD)によって壊滅的な打撃を受け、多くの兵士が処刑されるか、シュトゥットホーフ強制収容所に送られた。生存者は様々なレジスタンス組織に加わった。
ラトビアパルチザン戦闘員の数はピーク時に10,000 ~ 15,000人に達し、総数は 40,000人に達した[29]。1945年から1955年の10年間に700の部隊が形成され、最大12,000人ともされるが、確定的ではない[32]。
パルチザンは約3,000回の襲撃を実行し、ソ連共産党は1,562人のソ連兵が死亡し、560人が負傷したと報告している[32]。
タルリーツ・クラスティンシュ率いるパルチザン「ラーチャ・メドニエキ(熊狩り)は、ラトビア・ソビエト社会主義共和国の議長ヴィリス・ラーチスの暗殺に注力したが、1947年チェーカーに逮捕され、翌年メンバーはグラーグに送られた[33]。
ラトビアの森の同胞は、ドゥンダガ、タウルカルネ、ルバーナ、アロヤ、リーヴァーニなどの国境地域で活動した。東部地域ではエストニアの森の同胞と、西部地域ではリトアニアの森の同胞と連絡をとっていた。エストニアとリトアニアと同様に、ラトビアのパルチザンにもMVDとNKVDのスパイ工作によって潜入され、西側情報機関からの支援は、アウグスト・ベルグマニスやヴィドヴズ・シュヴェイツなどのスパイを用いたソ連の防諜作戦によって妨げられた[34]。
リトアニアのゲリラ戦 (1944-56)

バルト3か国のうち、抵抗運動が最も組織化されていたのはリトアニアで、1949年までゲリラ部隊が地方全域を支配していた。彼らはチェコのシュコダ銃、ロシアのPM1910重機関銃、迫撃砲、ドイツとソビエト製の軽機関銃と短機関銃で武装しており[15]、赤軍やNKVDの特別部隊との直接戦闘以外にも、待ち伏せ攻撃、破壊工作、共産主義活動家や当局者の暗殺、投獄されたゲリラの解放、地下新聞の発行などを通じて、ソビエト支配の強化を大幅に遅らせた[35]。
1943年11月25日にリトアニア解放最高委員会(VLIK)が設立された。VLIKは地下新聞を発行し、ナチスに対する抵抗を扇動した。1944年、ゲシュタポは幹部メンバーを逮捕した。ソ連によるリトアニア再占領後、VLIKは西側へ拠点を移し、リトアニアのパルチザンから提供される情報を西側へ発信した。
1944年7月1日、リトアニア自由軍(LLA)はソ連占領軍に対して戦争を宣言し、全構成員に、森林に駐屯し、リトアニアを離れないよう命じた。作戦部門(ヴァナガイ)と組織部門の2つが設置された。ヴァナガイは、アルビナス・カラリウスが指揮する武装戦闘員であり、組織部門はヴァナガイへの食料、情報、輸送の供給を含む消極的抵抗を任務としていた。1944年半ば、LLAは1万人の隊員を擁していた[36]。
ソ連は1945年1月26日までにLLAのメンバー659人を殺害し、753人を逮捕した。創設者のカジス・ヴェヴェルスキスは1944年12月に殺害され、本部は1945年12月に解体された。カラリウスは1945年にNKVDに逮捕され翌年に処刑された。
1946年、LLAの残存戦闘員はリトアニアのパルチザンと合流し始めた。1949年には、リトアニア自由戦士連合の幹部全員がLLA出身となった[37]。


リトアニア領土防衛軍、リトアニア自由軍、リトアニア軍、リトアニアライフル兵連合の隊員がリトアニアパルチザンの基盤となり、農民、公務員、学生、教師がパルチザン運動に参加した。この運動は社会とカトリック教会によって積極的に支援された。1945年末までに、推定3万人の武装民衆がリトアニアの森林地帯に居住した。
パルチザンは強力に武装していた。1945年から1951年にかけて、ソ連当局はパルチザンから迫撃砲31門、機関銃2,921丁、突撃銃6,304丁、ライフル22,962丁、拳銃8,155丁、手榴弾15,264個、地雷2,596個、弾薬3,779,133発を押収した。パルチザンは、ソ連の秘密警察イストレビテリを殺害したり、赤軍兵士から弾薬を購入することで武器を補充した[38]。どのパルチザンも双眼鏡と数個の手榴弾を持っており、捕虜にならないために自爆用の手榴弾を持っていた。
1948年5月、ソ連は春作戦 (ヴェスナ作戦)を実行し、森の兄弟パルチザンと関係のあるとされたリトアニア人約49,331人をシベリアに強制移送した[注 1]。
リトアニアの森の兄弟の戦闘員は拷問や即決処刑に処された。戦闘員の親族はシベリアへの流刑に直面した。反ソビエト的な態度をとった農民や村への報復は苛酷だった。NKVD部隊は、処刑されたパルチザンの死体を村の広場に並べるなどの衝撃戦術を用いて、人々の抵抗しようとする意思を削ぐことを試みた。 阻止した[15][43]。
1956年10月15日にリトアニア自由戦士連合の最高司令官アドルファス・ラマナウスカス(ヴァナガス)が逮捕された数日後にKGBの報告書には、次のように記されている。
右目は血腫で覆われており、まぶたには6つの刺し傷があり、細い針金か釘が眼球の奥深くまで刺さっていた。腹部には複数の血腫があり、右手の指には切り傷がある。性器には、陰嚢の右側に大きな裂傷と左側の傷があり、両方の精巣と精管が除去されている[44]
ラマナウスカスの妻は、グラーグ(強制収容所)で8年の刑を宣告された[45]。
ユオザス・ルクシャは西側へ逃れ、パリで回想録『自由のための戦士。リトアニアのパルチザン対ソ連』を執筆し、1951年にリトアニアに帰国後にMGBによって殺害された[46]。
諜報戦
1940年代後半から1950年代前半にかけて、森の兄弟はイギリスのMI6、アメリカの中央情報局、スウェーデンの諜報機関KSIから物資、連絡、兵站の提供を受けていた[47]。これらの支援はバルト諸国の抵抗運動にとって重要な役割を果たした。
MI6は1949年から1955年にかけてのジャングル作戦でバルト諸国の森の兄弟、およびポーランドの反ソ連活動呪われた兵士たちも支援した。エストニア軍司令官アルフォンス・レバネはイギリスM16に加わり、抵抗を支援した。
ラトビアのアルフレズ・リークスティンシュはスウェーデンに逃亡し、アメリカで諜報活動の訓練を受けたのちにクールラントへ戻ったが、チェーカーに包囲され自決した。
しかし、キム・フィルビーらケンブリッジ・ファイブその他の西側諸国のソ連のスパイ活動によってMI6のジャングル作戦が深刻な危機に瀕してからは、バルト諸国への支援は大幅に減少した。これらのソ連のスパイたちの諜報活動・情報提供によって、ソ連国家保安省(MGB)はバルト諸国のゲリラ部隊を特定し、潜入し、排除し、西側諸国の諜報工作員との接触の遮断に成功した[47]。
強制移住作戦
ソ連は都市部の支配を強化していくとともに、反ソ連的とされたバルト諸国の住民をシベリアなどへ強制移住した。
1948年5月、ソ連はリトアニアで春作戦 (ヴェスナ作戦)を実行し、リトアニア人約49,331人をシベリアに強制移送した。1948年までにリトアニアには76,000人のソ連秘密警察隊と第8軍が出動した[2]。
1949年3月25日から28日にかけて行われたプリボイ作戦で、反ソビエト分子とされた7万6000人[2]から9万人以上のエストニア人、ラトビア人、リトアニア人がシベリアへ強制追放され、そのうち70%以上が女性と子供だった[48][49][50]。プリボイ作戦による強制移送によって、森の兄弟の支援基盤は破壊され、バルト諸国住民の集団化も強化された[50]。スターリン死後、移送されたバルト諸国人の一部の帰国が許されたものの、ほとんどは帰国できないままだった[50]。エストニアだけで20,000人以上がシベリアに強制送還され、そのほとんどが女性と子供だった[50]。
リトアニアでは、さらに1951年後半にオセン作戦という別の大規模な強制送還を実行し、2万人以上が犠牲になった。
さらにソ連は集団農場での労働を強制し、パルチザンを取り締まるための特別軍と治安部隊を派遣していった。これによって、農村部の民間人からのパルチザン部隊への援助は困難になっていった[32]。
最後のパルチザンは1957年にソ連当局に投降した[34]。
犠牲者
戦闘員
ソ連軍と森の兄弟との紛争は10年以上続き、少なくとも5万人の命が失われた。各国の戦闘員数の推定値は様々である。政治学者レイン・ターゲペラとミシュナスの推定によると、リトアニアでは3万人、ラトビアでは1万人から1万5千人、エストニアでは1万人に達する[51]。
NKVDの報告書によれば、1945年にリトアニアで8,916人、ラトビアで715人、エストニアで270人のパルチザンが殺害された[52]。実際の犠牲者の数字はさらに大きいが、これは3カ国間の抵抗の規模の比率を示しているとも指摘されている[53]。
リトアニアでのソ連の死者は13000人、ソ連の死傷者は8万とされる[2]。
民間人
1944年から1953年にかけてのソ連の恐怖政治は広範囲に及び、あらゆる抵抗を抑圧することを意図していた。1949年だけで76,000人のバルト諸国住民が強制移送の犠牲になった[2]。
この期間、リトアニアでは18万3000人の住民が逮捕され、そのうち14万2000人がグラーグ(強制収容所)に送られ、8万人が政治犯罪で有罪判決を受けた。リトアニアの強制移送の犠牲者は25万人ともいわれる[2]。高齢者、病人、障害者、妊婦、子供、乳児を含む13万人以上の追放されたリトアニア人のうち約2万8000人が追放中に死亡し、さらに2万3000人が射殺されるかソ連収容所で死亡した[54]。
ラトビアでは8万8000人が刑務所や労働収容所に送られ、2321人が処刑された エストニアでは、3万4800人が政治的な理由で逮捕され、900人以上が処刑された[55]。
他方、パルチザンは、1944年に3,348人、1945年に6,578人、1946年に4,162人のソ連協力者を殺害した[2]。
抵抗運動の衰退と変化
1950年代初頭までに、ソ連は森の兄弟の抵抗運動の大部分を壊滅させた。西側諸国のソ連のスパイと抵抗運動内部に潜入したMGBの諜報員が収集した情報と、1952年にソ連が実施した大規模な作戦によって、事実上終結に至った。
しかし、1953年のスターリン死後、ソ連当局から恩赦の申し出を受けた森の兄弟の隊員は武器を放棄したが、散発的な戦闘は1960年代まで続いた。最後のゲリラは潜伏し、捕獲を逃れながら1980年代まで活動を続けた。
1972年には高校生のロマス・カランタがソ連政権に抗議して焼身自殺し、若者が暴動を起こした。
エストニアパルチザンのカレフ・アロは、浮浪者に変装してエストニア南部の森に20年間隠れたが、1974年にKGBとの銃撃戦で死亡した[56][57]。エストニアパルチザンのオーガスト・サベは、1978年に漁師を装ったKGBのエージェントによって発見され、川で溺死した。
森に残った最後のリトアニアパルチザンであるベネディクタシュ・ミクリスは1980年代に逮捕され、数年間を獄中で過ごした[58]。
その頃にはバルト三国は平和的手段による独立を強く求めていた。リトアニアではヴィータウタス・ランズベルギスによるサユディス、1987年からの歌う革命、1989年のバルト三国でのデモ活動バルトの道などの活動がある。
多くの森の兄弟メンバーは、西側諸国とソ連との間の冷戦における敵対関係が、バルト諸国が解放される武力紛争に発展するかもしれないという希望を持ち続けたが、生き残った元森の兄弟の多くは、西側諸国がソ連に軍事的に対抗しなかったことに憤慨し続けた[13]。1956年のハンガリー動乱へのソ連の弾圧に対しても、西側諸国は介入しなかったため、バルト諸国における組織的な抵抗はさらに衰退した。
バルト三国のパルチザンの武装抵抗はソ連によって一般犯罪者として告発されたにとどまった。そのため、これは忘れられた戦争とも呼ばれる[15][44][59]。ソビエト政権下では、バルト三国の抵抗運動については議論することさえも抑圧された。このテーマに関する著作は、民族主義的共感にすぎないとして無視された。1980年代後半になって、エストニアのラールが研究への道を開始した[60]。
ソ連崩壊から現在へ
バルト諸国の独立宣言とソ連崩壊
1988年11月にエストニアが主権を宣言すると、翌1989年にリトアニアとラトビアが主権を宣言した。
さらに1990年3月にリトアニアが独立を宣言し、ラトビアも同年5月に独立を宣言した。ミハイル・ゴルバチョフソビエト連邦共産党書記長の決定で1991年1月ソ連軍がリトアニアに侵攻し、14人が殺害される血の日曜日事件 (一月事件)が起きた。エストニアも1991年8月に独立を回復し、その他のソビエト連邦構成共和国も独立、1991年12月にはソビエト連邦が崩壊した。
ソ連崩壊以後

1999年、リトアニア議会は、1918年2月16日の独立宣言の31周年にあたる1949年2月16日に、「リトアニアの自由のための闘争運動」の下に統一されたパルチザン抵抗勢力によって行われた独立宣言を再確認した[15]。
1944年から1953年にかけて、リトアニアではソ連の占領に対して、普遍的で組織的な武装抵抗、すなわち自衛が行われた。その目標は、大西洋憲章の条項と民主主義世界が認めた主権に基づき、侵略国ソ連に対してリトアニアを解放することであった。リトアニアの自由のための闘争運動の評議会は、政府および軍事の最高機関を構成し、占領下のリトアニアにおける唯一の法的権威だった。[61]
ラトビアとリトアニアでは、森の兄弟の退役軍人は少額の年金を受給している。リトアニアでは、5月の第3日曜日はパルチザンの日として記念されている。2005年には、リトアニアに約350人の森の兄弟の元隊員がいた[62]。
2001年にタリンで行われた講演で、共和党で米国上院議員のジョン・マケインはエストニアの森の兄弟の功績を称賛した[63]。
2006年、欧州人権裁判所は、ソ連によるバルト諸国の強制送還は人道に対する罪に該当すると判決した[64]。
2018年、パルチザン司令官アドルファス・ラマナウスカスの国葬が行われた。
ルーベン・ランブールはグラーグで18年強制労働収容所に収監され、2016年に回想録[65]を出版した最後のエストニアの森の兄弟であったが、2024年に亡くなった[66]。
関連作品
- Legendi loojad (1963年) - エストニアの森の兄弟についてのカナダ映画[67]
- 誰も死にたくなかった(1963年)ヴィタウタス・ジャラケヴィチウス監督、リトアニア・ソビエト社会主義共和国の映画。リトアニアのパルチザンを描いた最初のソビエト映画。1967年にソビエト連邦国家賞受賞。
- ラトビア・ソビエト社会主義共和国のTVドラマ 砂丘の長い道 (1980–1982)
- エストニアのドキュメンタリー映画 私たちはエストニアのために生きた(1997年)
- ラトビアのTVドラマ リクテニャ・リドゥムニエキ, (2003 - 2008年)
- リトアニア映画『完全な孤独』(2004年)ジョナス・ヴァイトクス監督
- ドキュメンタリー映画『スティルナ』(2005年)[68][69]
- エストニア映画「森の息子たち}」(2007年)
- ラトビアのドキュメンタリー映画『「セグヴァルズ・ヴィエントゥリス」(2014年)
- ラトビアのテレビドラマ『」(2019年)
- 小説
- Geraint Roberts, 小説Forest Brothers 2013,Circaidy Gregory Press.

