1946年、法政大学からパシフィックへ入団。1947年には戦後初の1試合3本塁打を記録するなど、好調時の長打力は当時としては有数で「固め打ち」の名手と謳われた。その後、後身の大陽ロビンスを法大の先輩・田川豊と共に退団し、法政大学野球部の恩師だった藤田省三(近鉄初代監督)を慕って近鉄パールスの設立に参加。
近鉄初代4番打者として、初回にチーム初得点となるタイムリーを挙げた[1]。この年は本塁打王となった別当薫の43本塁打に次ぐ30本塁打を記録。移籍2年目の1951年には、日本プロ野球史上初の開幕3打席連続本塁打も達成した。