植村伴次郎
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1929年3月に秋田県由利郡東滝沢村(現:由利本荘市)前郷で生まれ、第二次世界大戦の終戦直前まで同地で育つ[3]。戦時中は、群馬県邑楽郡小泉町(現:大泉町)にあった中島飛行機の工場で学徒動員を経験した[3]。1945年3月に旧制本荘中学校を卒業[3]する。
1950年代からは新橋にて「COMO」というバーを経営。黒柳徹子など当時の若手俳優が集ったという[4]。
1961年4月1日、海外番組の日本語吹き替えを制作する東北新社を創業し、以後代表取締役社長として長く経営した[2][3]。創業当初の東北新社は7人ほどで業務を担い、植村自らも吹き替えを演出するなどした[5]。
1973年7月、海外映画の吹き替えに携わっている声優の待遇改善を求めて、俳優の労働組合である日本俳優連合がデモと抗議行動を行なった際に、経営者側の代表として厳しく対峙した[6][7][8]。その際に植村は週刊明星とのインタビューにおいて「役者などは無能であり、次から次に生まれてくる使い捨ての商品みたいなもの」と発言したため、組合側の激しい怒りを買ってしまった[6][8]。後に植村と組合が協議を行った結果、出演料を約3倍に増額することで妥結した[7]。
東北新社で2003年6月に代表取締役会長、2009年6月に最高顧問となるが、この間オムニバス・ジャパン、二番工房、スター・チャンネルなどの代表取締役社長や、日本音声製作者連盟会長、BSデジタル放送推進協会理事、日本アド・コンテンツ制作社連盟副理事長、衛星放送協会会長、デジタルコンテンツ協会副会長、社団法人日本ケーブルテレビ連盟理事、日本音楽財団理事などを歴任した[2]。
2010年に内閣府令の改正で役員報酬総額1億円以上の役員の氏名を有価証券報告書に記載することが義務づけられた直後は、6億円弱の取締役退職慰労金を含め、2010年3月期の報酬総額が6.75億円と報じられた[9]。2011年5月から2014年3月にかけて由利高原鉄道の列車に『宇宙戦艦ヤマト』のラッピングが施された[10][11]。
2012年に旭日小綬章を受章し[12]、放送批評懇談会の第3回志賀信夫賞を受賞した[2]。2015年3月に由利本荘市から、遠藤章に次いで第2号となる「名誉市民」の称を贈られた[3]。
2019年10月15日、肺炎のため死去[1]。90歳没。お別れの会はホテルオークラ東京で行われ、お別れの言葉は生前に頼まれていたことから藤波京子が朗読した[13]。