楊元琰
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生まれてから数年、言葉を発することなく、相者は「言葉が遅いのは神の定めで、この子は必ず大器となりましょう」と占った。成長すると、容貌と態度が雄偉で、器量を称賛された。父の喪にあたっては、7日食事を取らなかった。喪が明けると、梓州参軍に任じられた。平棘県令となり、善政で知られた。永寧軍副使に抜擢されたが、上官にさからって免官された。載初元年(690年)、安南副都護に累進した。さらに蘄州・蒲州・晋州・魏州・宣州・許州の刺史や涼州・梁州の都督や荊州都督府長史を歴任した[2][3]。
長安年間、張柬之が元琰に代わって荊州長史となると、元琰は張柬之と長江中流に舟を浮かべて、武氏の専横の現状を語り合って憤り、唐朝の復興の意志を確認しあった。張柬之が宰相となると、元琰は右羽林軍将軍に引き立てられた。洛陽に着任すると、元琰は李多祚らと結び、張易之兄弟を殺害する計画を立てた。神龍元年(705年)、張易之兄弟を殺して中宗を復位させると、元琰は雲麾将軍を加えられ、弘農郡公に封じられた[4][5]。
まもなく張柬之や敬暉らが武三思と敵対すると、元琰は異変を察知して、剃髪して出家したいと願い出て、官爵と実封を返上しようとしたが、中宗に許されなかった。敬暉はこれを聞いて笑ったが、元琰は「功成り名遂げて、退かざれば危うからん」と答えた[6][5]。
神龍2年(706年)、敬暉らは罪を得て左遷され殺害されたが、元琰は身を守ることができた。ほどなく金紫光禄大夫の位を加えられ、衛尉寺卿に転じた。景龍元年(707年)、李多祚らが殺害されると、元琰はかつて李多祚とともに功を立てたことから、連座して獄に繋がれ罪に問われた。中書侍郎の蕭至忠に頼って、処罰を免れた。さらに光禄寺卿に転じた。上疏して自らの官爵を削り、父の贈官に回すよう請願し、中宗に許された。睿宗が即位すると、三度異動して刑部尚書となり、魏国公に改封された。開元2年(714年)、太子賓客として致仕した。開元6年(718年)、家で死去した。享年は79。諡は忠といった[6][5]。