楊元琰

From Wikipedia, the free encyclopedia

楊 元琰(よう げんえん、640年 - 718年)は、唐代官僚は温[1]本貫虢州閿郷県[2][1]

生まれてから数年、言葉を発することなく、相者は「言葉が遅いのは神の定めで、この子は必ず大器となりましょう」と占った。成長すると、容貌と態度が雄偉で、器量を称賛された。父の喪にあたっては、7日食事を取らなかった。喪が明けると、梓州参軍に任じられた。平棘県令となり、善政で知られた。永寧軍副使に抜擢されたが、上官にさからって免官された。載初元年(690年)、安南副都護に累進した。さらに蘄州蒲州晋州魏州宣州許州刺史涼州梁州都督荊州都督府長史を歴任した[2][3]

長安年間、張柬之が元琰に代わって荊州長史となると、元琰は張柬之と長江中流に舟を浮かべて、武氏の専横の現状を語り合って憤り、唐朝の復興の意志を確認しあった。張柬之が宰相となると、元琰は右羽林軍将軍に引き立てられた。洛陽に着任すると、元琰は李多祚らと結び、張易之兄弟を殺害する計画を立てた。神龍元年(705年)、張易之兄弟を殺して中宗を復位させると、元琰は雲麾将軍を加えられ、弘農郡公に封じられた[4][5]

まもなく張柬之や敬暉らが武三思と敵対すると、元琰は異変を察知して、剃髪して出家したいと願い出て、官爵と実封を返上しようとしたが、中宗に許されなかった。敬暉はこれを聞いて笑ったが、元琰は「功成り名遂げて、退かざれば危うからん」と答えた[6][5]

神龍2年(706年)、敬暉らは罪を得て左遷され殺害されたが、元琰は身を守ることができた。ほどなく金紫光禄大夫の位を加えられ、衛尉寺卿に転じた。景龍元年(707年)、李多祚らが殺害されると、元琰はかつて李多祚とともに功を立てたことから、連座して獄に繋がれ罪に問われた。中書侍郎の蕭至忠に頼って、処罰を免れた。さらに光禄寺卿に転じた。上疏して自らの官爵を削り、父の贈官に回すよう請願し、中宗に許された。睿宗が即位すると、三度異動して刑部尚書となり、魏国公に改封された。開元2年(714年)、太子賓客として致仕した。開元6年(718年)、家で死去した。享年は79。は忠といった[6][5]

家族

脚注

伝記資料

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI