楊渉

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楊 渉(よう しょう、生没年不詳)は、末から五代十国時代にかけての官僚政治家は文川[1]本貫同州馮翊県[2]

乾符2年(875年)、進士に及第した。吏部郎中礼部侍郎刑部侍郎を歴任した[3][4]乾寧4年(897年)、吏部侍郎に転じた[5]天復4年(904年)、尚書左丞となった。昭宗洛陽遷都に扈従し、吏部尚書に進んだ[3][4]天祐2年(905年)、楊渉は中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)・集賢院大学士・判戸部事となった[6][7]。天祐4年(907年)、哀帝朱全忠に帝位を禅譲するにあたって、楊渉は押伝国宝使をつとめた[8]後梁開平元年(同年)、門下侍郎・同中書門下平章事となった[9][10]貞明2年(916年)、宰相を退任して尚書左僕射となり[11]、知礼部貢挙をつとめた。数年後に死去した[12]

家族

の越国公楊素の末裔にあたる。

脚注

伝記資料

参考文献

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