権現城 (信濃国)
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権現城は、和知野城ともいわれ、天龍村神原郷の戸連山の余脈が北に続き、大下条の和知野川の南岸に、和知野川に突出する標高520メートルの険しい山の峰に築かれている。左方の崖下を南沢(犬坊沢)が、右方は城沢が流れ、共に和知野川に注いでいる。
和知野川の河岸より急峻を登ると緩い傾斜地があり、ここに桑畑と「城」という屋号の人家(平成時代に火災で焼失)があった。関氏以前より居住していた坂部熊谷家の別家で、落城後に再び元の地に戻り住んでいたと伝わる。
本曲輪は城構の中央にあり、東西35メートル、南北31メートルの曲輪で、その後方に一段高い処があって、その西側に関八幡社の社殿があり、その東側には富士浅間の石碑がある。
神社の拝殿の前面に3.6メートル程離れて2個の平型の石(径37センチメートル)が地表に露出しているが、これは築城当時の礎石であると考えられている。
城址の木廓の後方に平地があり3基の墓碑が石組の上にある。南信州関氏4代の関春仲と、その妻、5代の関盛永の墓である。
この山の背をさらに南に進むと内堀があり、さらに進むと関氏の氏神である熊野権現社がある。この城を権現城と称するのは、熊野権現を奉祀したためとされる。
その外に外堀があり、ここからは天龍村神原の山々に続いている。
歴史
この地は元は、猪毛(いもう)と呼ばれ、天龍村福島領分であったが、下条氏と対立していた南信州関氏5代の関盛永が威力で強引に築城し天文7年(1538年)上田城[1]から移った。
天文13年(1544年)8月13日の夜、関氏が毎年恒例の月見の宴を催していた。城内の者達は三味線や琴、双六にカルタ等の遊興に耽り飲食した後に熟睡していた。この時に下条時氏の下知により、下条家重(志摩守)が大将となり、坂牧善左衛門、佐々木日向守、佐々木出羽守、村松太郎左衛門、その他勇士20騎、雑兵250人、上郷と下郷の750人が、狼煙と鹿笛を合図に押寄せて城を取り囲み総勢が鯨波の声をあげて城内に突入した。
関氏の一族は不意を打たれ、父の春仲と盛永の母は自刃し、関氏一族の16人が討死した。城内にも下条方に内応する者が多く日頃、盛永に目をかけられていた18歳の小姓の犬坊丸は、すでに盛永が持つ刀の目釘を抜き、弓の弦を切って台所の釜の陰に隠れて待っていた。犬坊丸は槍で盛永の右脇腹から左の肩先までを突いて槍の穂先が3~4寸出た。
盛永は「己れ憎き奴かな無念なり、三日を過ごさず此仇酬い呉れん。」と叫んで犬坊丸を睨みつけたが、身の毛がよだつ形相であったため、犬坊丸は槍を投げ捨てて、一旦その場から離れた。盛永の享年30歳。
茶坊主の黒沼道斎は、盛永の遺骸を障子で囲んで火を放ち、自らもその火中に飛び込んで焼死した。
権現城は落城し関氏の余類、分城は悉く落城した。南信州関氏の本家は初代の関盛春以来150余年、5代にして断絶した。関一族の祟りを恐れた領民は、権現城跡に 盛永と父の春仲と母の墓を建立し、権現城跡と上田城跡に関三社権現を祀った。
南信州関氏の城と館
日差館
阿南町新野にあった。日差館(ひさしやかた)跡は新野高原(海抜800メートル)の中央部にあたる、市の瀬川と樽川の合流地点に挟まれた中間地点にある。
南信州関氏初代の関盛春(遠江守)[2]が、嫡男の関盛国[3](伊勢守)と次男の関盛数、家臣の吉澤文吉らと、伊勢国鈴鹿郡から辿り着いたのは「栃窪」の地で、新野盆地の中央部にあたり最初に築いた館である。
かつて中央に殿屋敷という地名の少し小高い場所があった。この南・東北面は小高い土手になっており、西方は掻き上げ式の空堀をもって区切られたものと思われる。
位置は、市の瀬川と樽川の合流点に挟まれた中間地点である。近くを関氏が日差館の建設に当たり引かしめた「中井用水」が市の瀬川より樽川に通じている。
現在は昭和40年代後半に農業改革事業が行われ、一帯が区画整理されたため、中井川も付け替えられたが、国道151号線と国道418号線の交わる場所の東側に当たる部分と思われる。
1875年(明治8年)頃までは、殿屋敷と云われる水田の中に7.3メートル四方の石が積み重ねられたものがあったと云われるが、地主が取り壊したため現在は無くなっている。
矢草城
阿南町西条本城にあった。純然たる山城で家古沢城とも云われる。山頂にひょうたん形の平地があり、これを本曲輪として、その下に数段の小曲輪がある。空堀の跡も東西2箇所に認められる。城跡には竹矢の材料とされるヤダケが多く生えているため矢草城と名付けられたという。関春仲が大永5年(1525年)から居住し上田城に移ってからは金田盛形が守っていた。
上田城
阿南町西条城山にあった。関春仲が築城。権現城に移るまで天文5年(1536年)~天文7年(1538年)まで3年間在城した。

