下条時氏
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南信州関氏は、4代の関春仲の代になると勢力が強まり、それまでは和知野川以南を領地としていたが、和知野川以北の大下条にも勢力を伸ばし、領地を隣接していた下条家氏と紛争が起きるようになった。
大永5年(1525年)、下条氏と関氏が、大下条の早稲田で戦ったが下条氏が敗退した。関春仲は矢草と上田に城を築いて家氏と相対した。
天文3年(1534年)、松尾城主の小笠原貞忠が府中(松本)小笠原長棟や鈴岡小笠原氏の被官であった時氏に攻められて落城し、甲斐国に落ち延びた。
従来、下条氏の勢力は阿知川以南であったが、阿知川以北にも領地を拡げ、山本村の一部や清内路村、木曽谷の妻籠、馬籠、湯舟澤、美濃国恵那郡の落合村までを領有するに至った。
天文5年(1536年)、時氏が父の家氏の菩提を弔うために、芦が平に下条氏の菩提寺として龍嶽寺を開基し、長久寺の東渓興春[1]を勧請して開山し、山号を萬松山とした。
天文8年(1539年)4月には、下条勢の数百人が大下条の早稲田集落に押し寄せて田畑を踏み荒らし麦を刈り取るなどの狼藉を行ったが、関方の者が集まらなかったので井戸集落の金田上総守の手の者が、これを追い返すなどの争いがあって、しばしば下条氏との衝突があった。
天文10年(1540年)6月中旬から7月中旬にかけて、日照りで山田の水が殆ど干上がって困ったことになった。
この時に下条領の鷲巣・浅野・門原・小中尾・田上・大森・大平・深見・千木の9ヶ村の郷主達が、関盛永の権現城に参上して、「かねて承りますところによると、殿様は希代の御武徳によって風雨は望み次第とのことを雷神と約束された由、当年の日照で領内の下民が嘆いておりますから、ここ三日のうちに雨を降らして下さったならば、これからは関公に貢を捧げ幕下に属して忠勤致します。」と約束して帰った。
これは盛永を困らせてやろうとして行ったらしいが、その後、偶然にも2日間、大雨が降った。特に下条領付近から南によく降り、その北には殆ど降らなかった。それで約束通り降参して関領に帰属した。これは時氏が謀り事をもって失敗し、却って盛永の驕慢を増長させた出来事と云われている。
天文10年(1540年)9月、時氏が兵200をもって関氏の権現城を攻めるという知らせがあった。関方も郷主が城兵家臣等500人を動員して和知野川河畔に陣立てして待っていると、時氏は嫡男で13歳の下条信氏(幸菊丸)を総大将として攻めたが、関方が勝利した。その後、下条と関の両氏が和睦の話が合ってお互いに人質を交換することを約束した。
天文11年(1541年)12月、時氏は伯父の佐々木蔵人と、大平の佐々木刑部の娘のおとわを関氏に人質として出したが、勝ちに驕った関盛永は人質を出さずに終わった。そのことで時氏が怒って再び戦になるかと思われたが、宜しく頼むということで、その年は平穏なまま過ぎた。
天文12年(1543年)、隠居となっていた関春仲は、西国巡礼に出掛けた折に、上方で火縄銃を2丁購入して帰ってきたが、関盛永は鹿狩と云って、郷中の山に出掛けては、火縄銃で山稼人や旅人を撃ち殺すなどの無慈悲なことが多かった。
分家の関盛三の子の関大隅守盛正や、関氏重臣の金田上総守からの諫言も聞きいれず、吉澤伊豫守は、特に誠心をもって諫言したところ、逆に自分を殺そうとしていることを聞いた。
天文12年(1543年)9月、吉澤伊豫守は、盛永の不行状75ヶ条を、時氏に送って離反した。
時氏は大沢城主の佐々木帯刀と、山田河内領主で弟の家重を茶買商人に化けさせて、関領内の各郷主と密談を重ねさせて関領の実態を調査している。また関氏と領地が隣接する三河国加茂郡の足助松山城主の鈴木伊賀守とも密談が行われた。
天文13年(1544年)8月13日の夜、関氏が毎年恒例の月見の宴を催していた。城内の者達は三味線や琴、双六にカルタ等の遊興に耽り飲食した後に熟睡していた。
この時に時氏の下知により、下条家重(志摩守)が大将となり、坂牧善左衛門、佐々木日向守、佐々木出羽守、村松太郎左衛門、その他勇士20騎、雑兵250人、上郷と下郷の750人が、狼煙と鹿笛を合図に押寄せて城を取り囲み総勢が鯨波の声をあげて城内に突入した。
関氏の一族は不意を打たれ、父の春仲と盛永の母は自刃し、関氏一族の16人が討死した。城内にも下条方に内応する者が多く日頃、盛永に目をかけられていた18歳の小姓の犬坊丸は、すでに関盛永が持つ刀の目釘を抜き、弓の弦を切って台所の釜の陰に隠れて待っていた。犬坊丸は槍で盛永の右脇腹から左の肩先までを突いて槍の穂先が3、4寸出た。
関盛永は「己れ憎き奴かな無念なり、三日を過ごさず此仇酬い呉れん。」と叫んで犬坊丸を睨みつけたが、身の毛がよだつ形相であったため、犬坊丸は槍を投げ捨てて、一旦その場から離れた。盛永の享年30歳。
犬坊丸は関盛永の首を持って時氏のもとに持参した。時氏は上機嫌で、褒美として大小の刀、米12俵の目録を拝領し、酒も振舞われて意気揚々と帰ってきた。
ところが途中の六万峯坂中へ来た時に犬坊丸は突然狂い始め、どこからともなく現れた白いまだらの犬に向かって「盛永殿が出た」と、がたがたと震えながら逃げ回るうちに足を滑らせて倒れた。すかさず犬は飛びかかり、犬坊丸は喉笛を噛み切られて絶命した。このことは、井上靖の小説「犬坊(いぬぼう)狂乱」の原案となっている。
阿南町役場近くに「犬坊の墓」と伝わる石室がある。その中には頭上に犬の頭を乗せた石像が祀られている。
その後、関大隅守盛正は、時氏に服従し、本領の中谷御供を安堵された[2]。また時氏は関氏の有力な一門衆を説得して従わせ、各郷主には旧来の権利を保障した。
これにより、関領であった信濃国内の3,021貫が下条領となり、計8,000貫(約2万石)となった。三河国内の3ヶ村(大谷・河内・市原)の231貫は、三河国の足助鈴木氏の領地となった。
この頃、『甲陽軍鑑』には、下条150騎と記されている。
天文23年(1554年)8月の鈴岡城攻略前後に、嫡男の信氏と共に武田信玄に服従し、遠山氏の領地であった美濃国恵那郡上村[3]を与えられ、他には知久平を同年12月に知行として与えられている。
時氏は、歌人としても知られ、和歌3首が禁中に送られ、そのうちの2首が勅撰に入っているとされる。
霞をも 一入花に思はれて 空にしられぬ 雪ぞ降りける
短か夜の 星の光を しるべにて 夏野の鹿や 山におるらん
老が身の 急かす先は ちかつきて 過し昔は 遠さかり行く
脚注
参考文献
- 『阿南町誌 上巻』 第2編 歴史 第3章 中世 第六節 関氏 六 下条・関氏の抗争と関氏の滅亡 p560-p568 阿南町町誌編纂委員会 編 1987年
- 『大下条村誌』 第二 歴史編 第二章 下條氏伝記 p43-p44 熊谷星外 著 大下条村史編纂委員会 1961年
- 『下條村誌』 第四編 中世 第六章 下条氏と関氏の対立 第二節 下条・関氏の抗争と関氏の滅亡 p373-p376 下条村誌編集委員会 編 1977年
- 『売木村誌』 第三章 中世の売木 三 戦国動乱期 2 下条氏 p53-p55 売木小中学校編 1968年
- 『天龍村史 上巻』 第二編 歴史 第二章 中世 三 関氏・下条氏の天龍村進出 p861-p878 天龍村史編纂委員会 平成12年
- 『下伊那史 第6巻』第七章 第三節 下条氏の勢力伸長 p308-p326 下伊那教育会編 下伊那誌編纂会 1970年
- 『下伊那史 第6巻』第九章 下条・関両氏の抗争と関氏の滅亡 p356-p360 下伊那教育会編 下伊那誌編纂会 1970年