関盛永
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関盛永(国盛・新蔵)
この頃、関春仲が隠居し、盛永(国盛・新蔵)が5代当主となると、一族の分知や築城が数度発生し領内の百姓は困窮した。矢草城、上田城などの築城普請に伴う課役の増大により、百姓だけでなく、関家家中の者も反発した。
築城においては、新野・向方・福島・松島・長沼・坂部の6郷から延ベ3120人を出役させて石材を運ばせ、怠ける者にはバラの棘のある枝で打ったりもした。
天文7年(1538年)、さらに要害の地を求めて福島と坂部の郷主から承認を得ていないのにも拘わらず福島の枝郷の猪毛の地に権現城(和知野城)を築城した。
この際に福島と坂部の郷主から抗議を受けたが、盛永は激怒して「我が領地であるから、他から指図を受けぬ」と言って証書を引き裂いたという。
天文8年(1539年)4月には、下条勢の数百人が大下条の早稲田集落に押し寄せて田畑を踏み荒らし麦を刈り取るなどの狼藉を行ったが、関方の者が集まらなかったので井戸集落の金田上総守の手の者が、これを追い返すなどの争いがあって、しばしば下条氏との衝突があった。
天文10年(1540年)6月中旬から7月中旬にかけて、日照りで山田の水が殆ど干上がって困ったことになった。
この時に下条領の鷲巣・浅野・門原・小中尾・田上・大森・大平・深見・千木の9ヶ村の郷主達が和知野権現城に参上して、「かねて承りますところによると、殿様は希代の御武徳によって風雨は望み次第とのことを雷神と約束された由、当年の日照で領内の下民が嘆いておりますから、ここ三日のうちに雨を降らして下さったならば、これからは関公に貢を捧げ幕下に属して忠勤致します。」と約束して帰った。
これは盛永を困らせてやろうとして行ったらしいが、その後、偶然にも2日間、大雨が降った。特に下条領付近から南によく降り、その北には殆ど降らなかった。それで約束通り降参して関領に帰属した。これは下条氏が謀り事をもって失敗し、却って盛永の驕慢を増長させた出来事と云われている。
天文10年(1540年)9月、吉岡城主の下条時氏(伊豆守)が兵200をもって関氏の権現城を攻めるという知らせがあった。関方も郷主が城兵家臣等500人を動員して和知野川河畔に陣立てして待っていると、下条時氏の嫡男で13歳の下条信氏(幸菊丸)を総大将として攻め寄せてきたが、関方が勝利した。その後、関と下条の両氏が和睦の話が合ってお互いに人質を交換することを約束した。
天文11年(1541年)12月、下条時氏は伯父の佐々木蔵人と、大平の佐々木刑部の娘のおとわを関氏に人質として出したが、勝ちに驕った盛永は人質を出さずに終わった。そのことで下条氏は怒って再び戦になるかと思われたが、宜しく頼むということで、その年は平穏なまま過ぎた。
年貢を厳しく取立て、しきたりを破って領内の百姓から人別料金を取り、嫁取・婿取などの婚礼に対しても「御方株 料人株」と称して料金を徴収したために、配下の武士からも領民からも不満が高まっていった。
当時の臼挽歌[4]に「さても和知野の盛永様は、お方呼人 三百文 様をつけては五百文」と歌われたという。
また領内各村の郷主に対する扱いも、父の春仲の代までは客分扱いで、貴辺(きへん)[5]と呼んで尊重していたが、盛永は自分は生まれながらの太守であるからとして、郷主に対する呼び方を、其方(そのほう)に変えて玄関までの送り迎えをやめるなどしたため反感を買った。
天文12年(1543年)、隠居となっていた父の春仲は、西国巡礼に出掛けた折に、上方で火縄銃を2丁購入して帰ってきたが、盛永は鹿狩と云って、郷中の山に出掛けては、火縄銃で山稼人や旅人を撃ち殺すなどの無慈悲なことが多かった。
分家の関盛三の子の関大隅守盛正や、関氏重臣の金田上総守からの諫言も聞きいれず、吉澤伊豫守は、特に誠心をもって諫言したところ、逆に自分を殺そうとしていることを聞いた。
天文12年(1543年)9月、吉澤伊豫守は、盛永の不行状75ヶ条を下条時氏に送って離反した。
下条時氏は大沢城主の佐々木帯刀と、山田河内領主で弟の家重を茶買商人に化けさせて、関領内の各郷主と密談を重ねさせて関領の実態を調査している。また関氏と領地が隣接する三河国加茂郡の足助松山城主の鈴木伊賀守とも密談が行われた。
天文13年(1544年)8月13日の夜、関氏が毎年恒例の月見の宴を催していた。城内の者達は三味線や琴、双六にカルタ等の遊興に耽り飲食した後に熟睡していた。この時に下条時氏の下知により、下条家重(志摩守)が大将となり、坂牧善左衛門、佐々木日向守、佐々木出羽守、村松太郎左衛門、その他勇士20騎、雑兵250人、上郷と下郷の750人が、狼煙と鹿笛を合図に押寄せて城を取り囲み総勢が鯨波の声をあげて城内に突入した。
関氏の一族は不意を打たれ、父の春仲と盛永の母は自刃し、関氏一族の16人が討死した。城内にも下条方に内応する者が多く日頃、盛永に目をかけられていた18歳の小姓の犬坊丸は、すでに盛永が持つ刀の目釘を抜き、弓の弦を切って台所の釜の陰に隠れて待っていた。犬坊丸は槍で盛永の右脇腹から左の肩先までを突いて槍の穂先が3~4寸出た。
盛永は「己れ憎き奴かな無念なり、三日を過ごさず此仇酬い呉れん。」と叫んで犬坊丸を睨みつけたが、身の毛がよだつ形相であったため、犬坊丸は槍を投げ捨てて、一旦その場から離れた。盛永の享年は30歳であった。
茶坊主の黒沼道斎は、盛永の遺骸を障子で囲んで火を放ち、自らもその火中に飛び込んで焼死した。
権現城は落城し関氏の余類、分城は悉く落城した。南信州関氏の本家は初代の関盛春以来150余年、5代にして断絶した。関一族の祟りを恐れた領民は、権現城跡に 盛永、父の盛中と母の墓を建立し、権現城と上田城に関三社権現を祀った。
その後、関大隅守盛正は、下条氏に服従し、本領の中谷御供を安堵された[6]。また下条氏は関氏の有力な一門衆を説得して従わせ、各郷主には旧来の権利を保障した。
これにより、関領であった信濃国内の3,021貫が下条領となり、三河国内の3ヶ村(大谷・河内・市原)の231貫は、三河国の足助鈴木氏の領地となった。
現在、長野県諏訪市湖南に、関姓が五~六十戸ある。紋章は丸に五枚根笹、角切りに同じく根笹である。天正年間より庄屋、名主を務めた。南信州の関氏の後裔と伝わる。
犬坊丸の狂乱
犬坊丸は盛永の首を持って下条時氏のもとに持参した。下条時氏は上機嫌で、褒美として大小の刀、米12俵の目録を拝領し、酒も振舞われて意気揚々と帰ってきた。
ところが途中の六万峯坂中へ来た時に犬坊丸は突然狂い始め、どこからともなく現れた白いまだらの犬に向かって「盛永殿が出た」と、がたがたと震えながら逃げ回るうちに足を滑らせて倒れた。すかさず犬は飛びかかり、犬坊丸は喉笛を噛み切られて絶命した。このことは、井上靖の小説「犬坊(いぬぼう)狂乱」の原案となっている。
阿南町役場近くに「犬坊の墓」と伝わる石室がある。その中には頭上に犬の頭を乗せた石像が祀られている。
お万と長五郎
盛永の奥方のお万[7]は、落城の際に幼い嫡男の長五郎[8]を連れて城を脱出し、合戸峠を越えて坂部の伯父の関四郎左衛門の処へ行く途中、福島の清水ヶ沢で出会ったので助けを求めたが、関四郎左衛門は平素とは打って変わり、「こうなったのも盛永の不行跡の致すところにより自業自得である。最早相構わず、何処へなりとも行け」と突き放した。このことは、いづれ下条氏の追手が坂部の関氏にも捜しに来るので他所へ逃げたほうが助かるかもしれないと考えたからともされる。母子ともに驚き涙に咽びつつ立ち去った。
それで福島から溝の田、大久那、明ヶ島を通って足瀬に辿り着いた時には身も心も疲れ果てていた。その後、母子は早木戸川沿いに登り足瀬へ辿り着いた。 そこで一軒の百姓家を訪ねて休息を頼んだところ、その家の人はいたく同情して食べ物を差し上げた。そこでお礼にと蒔絵が描かれた立派な2つの椀を百姓家に与えた。その子孫である恩沢家には今でもその椀が残っている。
その後、足瀬高橋で川を渡り、長尾坂を喘ぎながら向方へ出た。向方のある家の傍に生えていたユウガオを嫡男の長五郎が欲しいと言って取ろうとしたところ、その家の人が出てきて母子を叩いた。別の言い伝えでは百姓家に一杯の水を求めたところ、これを飲むがいいと言って丁度タライの中にあった赤く汚れた水をユウガオの葉で掬って与えたともされる。
母のお万が怨んで「この家のユウガオは来年赤くなる」と言ったところ、次の夏から本当にそうなったので、その子孫の家ではユウガオを作らないという。
さらに柳島の城の根を通って中口の近くを通って大河原へ迷い出た。ここには旧縁の伊藤惣十郎の家があったので暫らくの間、匿ってほしいと懇願したが、「それは尤もの儀なれども、関氏を滅ぼしたのは郷中一堂が相談の上にて行ったことなので匿うことは出来ない」と断られた。
それでは生家の原家がある浪合に落ち延びたいとして案内を頼んだところ、伊藤惣十郎は、長五郎を背に乗せて、お万を連れて反対方向の山中に入って行った。長五郎は浪合へ行く街道であれば馬糞が落ちているはずなのに落ちていないのは怪しいと言い、危機を感じて伊藤惣十郎の肩に噛みついたが、母子は焼いた竹槍で刺し殺された。
盛永の妻・お万と、嫡男の長五郎の墓碑とされるものが、天龍村の大河原集落に現存している。お万の墓碑には「恵日院梅関悟春大姉」、長五郎の墓碑には「順徳院殿慧光明照大童子尊霊」と刻まれている。またその傍らに大きな「紫藤」がある。墓碑は、天龍村の指定有形民俗文化財に指定され、紫藤は村の天然記念物に指定されている[9]。
例年10月12日には、天龍村の大河内集落にある、お万と長五郎の位牌を祀る小堂で「お万様のおまつり」という供養祭が行われており、関氏の菩提寺である阿南町新野の瑞光院の住職が読経を行い、大河原の住民も参列している。当日は、「お万さま」と刻印された黒糖饅頭が振舞われている。