極心連合会
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設立から拡大まで
1963年(昭和38年)頃、大阪ミナミに本拠を置いていた独立組織・南一家吉田組が解散する。当時、吉田組に在籍していた橋本弘文は、解散後に橋本組を結成する。1976年(昭和51年)、橋本が三代目山口組山健組に加入した事に伴い、橋本組は山口組の三次団体となる。
1983年(昭和58年)、山健組組長・山本健一の死後1年が経過した頃、橋本は橋本組を極心連合会に改称。1984年(昭和59年)に勃発した山一抗争では、山健組傘下の極心連合会は一和会系組織を攻撃。これが切っ掛けとなり山口組内外で武闘派として認知される事となった。
山口組直系団体への昇格後
2005年(平成17年)4月、三代目山健組において組長代行職に就いていた橋本が、五代目山口組の直参へ昇格。これにより極心連合会は内部昇格の形で山口組の二次団体となった。同年7月、山口組が六代目体制に移行した後も、引き続き直系組織として活動する事となった。
2012年(平成24年)4月、新設された六代目山口組統括委員長に就任。
2015年(平成27年)8月の山口組分裂以降も、極心連合会は六代目山口組に残留した。同年12月1日、司忍六代目組長ら幹部が、神戸市内にある五代目組長の墓参りをした後、姜会長だけが総本部へ戻らなかった[2]。複数の直系組長らが説得したが応じず[2]、周囲に組織からの離脱を示唆した[3]。2日、最高幹部が総本部で緊急会合を開催、姜会長の処遇を協議したとみられ、姜会長は欠席したという[2]。その後、複数の直系組長が説得[3]。4日に総本部で開かれた幹部らの会合に姜会長が出席し、残留の方針が確認されたとみられる[3]。
2018年(平成30年)2月には、神戸山口組傘下の山健組から絶縁処分を受けた植野雄仁率いる二代目兼一会を傘下に収める。この兼一会の移籍は山口組分裂以降、規模の大きいものとして注目された[4]。
2019年(令和元年)10月、恐喝罪で服役していた六代目山口組若頭・高山清司が社会復帰する。同年11月、橋本はヤクザから引退し、極心連合会も同時に解散した。解散後、二代目兼一会が山口組の二次団体に昇格したほか、一部の組員が元極心連合会傘下の極粋会に移籍した。