武川寿輔

From Wikipedia, the free encyclopedia

死没 (1939-02-12) 1939年2月12日(61歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1898 - 1924
武川 寿輔むがわ じゅすけ
生誕 1877年11月15日
福島県安積郡福良村
死没 (1939-02-12) 1939年2月12日(61歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1898 - 1924
最終階級 陸軍少将
除隊後 赤穂中学校長
テンプレートを表示

武川 壽輔(むがわ じゅすけ[1]1877年(明治10年)11月15日 - 1939年(昭和14年)2月12日)は、日本の陸軍軍人教育者。最終階級は陸軍少将兵庫県立赤穂中学校(現:兵庫県立赤穂高等学校)の初代校長。

福島県安積郡福良村出身。父は旧会津藩藩士で県会議員の武川定八。安積中学から陸軍士官学校に進み、1897年(明治30年)卒業(9期)。1898年(明治31年)歩兵少尉に任官。陸軍大学校在学中に歩兵第27連隊の中隊長として日露戦争に出征[2]旅順攻囲戦に加わり203高地の攻防戦で負傷している。

戦後陸大(18期)を卒業し、教育総監部課員、歩兵第57連隊大隊長、第13師団東京衛戍総督部の各参謀を経て歩兵第3連隊の連隊長に就任する。部下に秩父宮雍仁親王がいた[2]第20師団参謀長を経て1923年(大正12年)8月6日少将へ昇進するとともに歩兵第39旅団長となり、翌年予備役編入となる。

その後、安積中学の同級生であった小西重直らの推薦を受け、兵庫県立赤穂中学校校長に就任した。武川は赤穂藩に流刑された山鹿素行と同郷という縁があり、赤穂義士会会長を務めている。赤穂城内には武川の頌徳碑が建立され[3]、没後50年に際し『武川先生の教育と思い出』が出版された。"やれば出来る。我に力あり"が口癖であった。稚松会会員[4]

著書

脚注

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI