殷海光
From Wikipedia, the free encyclopedia
渡台前
1919年、湖北省黄岡県(現在の黄岡市)に生まれる[2]。父はキリスト教宣教師であり、没落した儒教知識人の家系にあった[2]。
1936年、武漢の高校を卒業後、北平(北京)で金岳霖や熊十力の門下に入る[2]。1937年、西南聯合大学(抗日戦争中の清華大学の疎開大学)に入学[2]。のち大学院(清華大学哲学研究所)に進学。哲学と論理学を専攻する[2]。1944年、学徒志願軍的な十万青年十万軍・中国遠征軍に参加し、英領ビルマのミッチーナーで運輸部隊として従軍[2]。1945年、復員、修士号取得[2]。
1945年、重慶で国民党の機関紙『中央日報』の記者となり、徐復観や蒋介石の面識を得る[2]。1947年より金陵大学講師のち准教授を兼任[2]。
渡台後
1949年、遷台中の台湾に移住[2]。同年より、台湾大学哲学科(台湾大学哲学系)で教職に就く[2][3]。同時に『中央日報』から離れ、雷震らが創刊した自由主義誌『自由中国』の主筆となる[2][3]。
『自由中国』では蒋介石政権批判を展開し、政府の監視を受けるようになる[2][3]。1960年、雷震が反乱煽動罪で逮捕され『自由中国』が停刊[2](台湾の白色テロ)。その後も政権批判を続けるが、1966年、政府の圧力により台湾大学から免職される[2]。
思想・著作
ハイエク、ラッセル、ポパーらの影響のもと、科学的方法、個人主義、民主主義、自由主義などを論じた[1][6]。北宋の范仲淹の言葉「寧鳴而死、不黙而生」(沈黙して生きるより、発言して死ぬ方がましだ[7])をモットーに蒋介石政権を批判した。
著作の大半は《殷海光全集》(全22冊、2009-2013年、台大出版中心)に収録されている[4]。主著に《中國文化的展望》《海耶克和他的思想》《思想與方法》《邏輯新引》《怎麼判別是非》[5]、訳書にハイエク『隷属への道』《到奴役之路》[8]などがある。
《中國文化的展望》(1966年)では、中国文化と西洋文化の比較[6]、中体西用や五四新文化運動の反省[6]、自由主義など思想面での西洋化・近代化の必要性[6]、知識人論[9][10]などを扱っている。