熊十力
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1885年(光緒10年)、湖北省黄州府黄岡県で生まれた。父親は郷村の塾教師であった。若くして父母を失い、父の友人であった何檉木の下へ行き、郷塾で学んだ。軍に加入。1911年、内外を震撼させた武昌起義に参加し、湖北督軍府参謀に任じられた。
- 護法運動失敗から哲学研究へ
1917年に広州へ出て、孫文が推進する「護法運動」に参加したが、その失敗の後は哲学研究に専心することを決意。1920年、南京の支那内学院に入り、欧陽竟無大師について仏教学を研習した。その後、武昌の文華大学、天津の南開中学、北京大学、浙江大学で教鞭を執った。
- 日中戦争期
日中戦争の勃発後、1937年故郷の黄岡に帰った。翌年四川に移り、抗日戦勝利後まで四川に留まった[1]。この間、楽山復性書院で、宋明理学を講授した。彼は、ある民族が存続するためには、自己の哲学と自己の文化を持つことが不可欠であると考えていた。そのため、精力的に儒家の学説に対する研究を開始。また、『読経示要』などの儒学に関する著作を著し、胡適らの人々の“全盤西化”(全面西欧化)の主張に対して批判を展開した。ただし、聖賢の手になるという経典の中に沈迷することはなく、伝統的な儒学に対して徹底的な反思を加え、なおかつその中に儒家以外の諸子百家の諸説をも呑み込み、儒仏をも融合し、一個の思弁的で緻密な中国化した哲学を独創した。
1944年、その独創的な思想をまとめた『新唯識論』(語体文本)を上梓し、重慶商務印書館より中国哲学会の『中国哲学叢書』甲集・第1部として出版した。本書は彼の最も主要な思想書であり、熊十力の哲学思想体系が完成したものである。彼の思想の変化を端的に表現すれば、文言文本は、なお“新仏家”の学者の所説と評することができ、それに対して、語体文本は“新儒家”の学者の著作とみなすことができる。そのやや後に出版された『十力語要』、『十力語要初続』などの書中においては、熊十力の「新儒家哲学思想」の主要な内容が展開されている。
- 第二次世界大戦後
解放後、首届全国政治協商会議に参加。その後、全国政協協商会議では、4回届まで連続して委員に選任された。文化大革命が開始すると、1966年に熊十力一家は批判を受けた。紅衛兵の行為に悲憤し、中央に抗議文を送ったり、街頭や公園で「中国文化は滅びた!」等の語を書き残したりした。1968年になると、ついに絶食して抗議。後に減食に戻すが体力が低下し、5月23日、上海の病院で死去した。