水尾神社
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比咩神
| 水尾神社 | |
|---|---|
|
左手前に拝殿、中央奥に本殿。右には八幡社 | |
| 所在地 | 滋賀県高島市拝戸716 |
| 位置 | 北緯35度18分23.67秒 東経135度59分18.13秒 / 北緯35.3065750度 東経135.9883694度座標: 北緯35度18分23.67秒 東経135度59分18.13秒 / 北緯35.3065750度 東経135.9883694度 |
| 主祭神 |
磐衝別命 比咩神 |
| 社格等 |
式内社(名神大2座) 旧県社 |
| 創建 | 不詳 |
| 本殿の様式 | 流造 |
| 例祭 | 5月3日 |
| 地図 | |
水尾神社(みおじんじゃ/みをじんじゃ)は、滋賀県高島市拝戸(はいど)にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。神紋は「菊」[1]。
歴史
創建
水尾神社は、かつて水尾川を隔てた河南社(こうなみしゃ、南本殿)・河北社(こうほくしゃ、北本殿)の二社から成ったが、現在は河南社の一社から成る[2]。社伝[注 1]では、磐衝別命は猿田彦命の天成神道を学ぶために猿田彦命を祀る当地に来住したという[2]。そして、朝夕に猿田彦命を祀る三尾大明神(高島市永田の長田神社)を遙拝したのでこの地は「拝所(のち拝戸<はいど>)」と称され、その住居跡は「拝所御所」と称されたと伝える[2]。磐衝別命は当地で亡くなったため、その子・磐城別王は磐衝別命を三尾山に埋葬し、磐衝別命を祀る社として「河南社(現在社)」を創建したという[2]。
続いて社伝によると、応神天皇の第十一皇子・速総別王も天成神道を学ぶため当地に来住し、その4世孫である彦主人王は、磐城別王5世孫の振姫を妃に迎えた[2]。そして振姫は水尾神社の拝殿を産所として、天迹部王(あまあとべ)・男迹部王(おとあとべ)・太迹部王(おおあとべ:第26代継体天皇を指す)の3子を同時に出産したという[2]。その出産時、彦主人王は仮社を建てて安産を祈ったといい、のち天迹部王がその仮社跡に両親を祀る三重生大明神(みえなり-)を創建したのが「河北社」の始まりで、その後同社は比咩神(振姫)のみを祀るようになったと伝える[2]。この河北社は昭和46年(1971年)に倒壊したため、現在は河南社(現在地)に遷座している[2]。
概史
文献の初見は『新抄格勅符抄』[原 1]で、天平神護元年(765年)に近江国の「三尾神」に対して13戸の神戸(神社付属の民戸)が給されている[4]。その後、いずれも「三尾神」に対して延暦3年(784年)に従五位下、貞観5年(863年)に従四位下の神階が授けられた記事が見える[4]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では近江国高島郡に「水尾神社二座 並名神大 月次新嘗」として、二座が名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている[4]。
弘安3年(1280年)に禅智院が開かれると同院は水尾神社の別当寺となったという[4]。その後は振るわず社勢は衰微した[2]。
明治維新後、明治15年(1882年)に近代社格制度において郷社に列し、大正4年(1915年)に県社に列格した[1]。
神階
境内
摂末社
祭事
- 歳旦祭 (1月1日)[6]
- 左義長祭 (1月15日)
- 祈年祭 (3月16日)
- 鎮火祭 (4月15日)
- 例祭 (5月3日)
- 泥落祭 (6月初旬)
- 百燈祭 (6月26日)
- 敬老祭、八幡神社例祭、戦没者慰霊祭 (9月15日)
- 秋葉神社例祭 (9月18日)
- 秋正月 (10月17日)
- 新嘗祭 (11月23日)
関係地
- 北本殿跡
- 長田神社
- 式内社。磐衝別命が朝夕拝んだ「三尾大明神」であるという[2]。
- 大炊神社 (おおたきじんじゃ)
- 太田神社
- 三重生神社 (みおうじんじゃ)
- 所在地:高島市安曇川町常磐木(北緯35度20分38.59秒 東経136度0分33.14秒 / 北緯35.3440528度 東経136.0092056度)
- 式内社。祭神は彦主人王と振姫。社名「三重生」は振姫の産んだ3子に因むとされる。
- 安産もたれ石
- 振姫の3子出産伝承地。
- 田中王塚古墳(安曇陵墓参考地)
- 彦主人王墓の伝承地。

