永本裕章
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盈進高では、1969年秋季県大会準決勝に進むが、エース佐伯和司を擁する広陵高に敗退。翌1970年夏も県大会で敗れ甲子園には出場できなかった。
同年ドラフト2位で広島東洋カープに入団、ドラフト1位の佐伯とともに本格派右腕として期待される。
1974年は7月末から先発陣の一角として抜擢されるが、7連敗と実績を残せなかった。
1975年は5月4日の阪神タイガース戦(広島市民球場)で救援登板しプロ初勝利。6月19日のヤクルトスワローズ戦(神宮)では7回途中を1失点に抑えて初の先発勝利、連敗を5で止める好投を見せた[1][2]。しかし最終的にはこの2勝のみに終わる。
同年の10月19日、中日ドラゴンズとの最終戦で、プロ野球公式戦史上初の「満塁での敬遠」を行ったことで知られる[3]。広島の山本浩二と中日の井上弘昭がセントラル・リーグの首位打者のタイトルを競い、山本の打率が少し上回っているさなか、満塁の場面で代打として登場した井上に対し、広島ベンチはマウンドの永本に敬遠を指示した(四球で進塁した場合、打者の打率は上昇しない)。山本は最終的に井上と9毛差で首位打者になった。
1976年からは中継ぎに専念するが、同年オフに正垣宏倫との交換トレードで川畑和人と共に阪急に移籍。
1979年には中継ぎ、抑えとして2勝3セーブを記録。同年オフに柳田真宏・笠間雄二との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍も、登板はわずか14試合のみとあまり活躍の場はなく、翌年柳田との再トレードで阪急に出戻る。
1982年からアンダースローに転向。開幕直後からエース級の働きを見せ、8月1日からは6連勝も記録、同年は山田久志に次ぐ15勝を挙げる。
1983年も7勝を記録する。
1985年限りで現役引退した。現在は都内で会社員。球種はスライダー、カーブ、チェンジアップ、シュート。