井上弘昭

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国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1944-05-21) 1944年5月21日
没年月日 (2025-12-08) 2025年12月8日(81歳没)
日本の旗 日本 岐阜県多治見市
井上 弘昭
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市西淀川区
生年月日 (1944-05-21) 1944年5月21日
没年月日 (2025-12-08) 2025年12月8日(81歳没)
日本の旗 日本 岐阜県多治見市
身長
体重
176 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手外野手
プロ入り 1967年 ドラフト1位
初出場 1968年8月1日
最終出場 1985年5月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 西武ライオンズ (1985)
  • 中日ドラゴンズ (1992 - 1994)

井上 弘昭(いのうえ ひろあき、1944年5月21日 - 2025年12月8日)は、大阪府大阪市西淀川区出身の元プロ野球選手内野手外野手)。引退後は中日スポーツ野球評論家を務めた。

北陽高校から電電近畿に進む。1965年第36回都市対抗野球大会では、八幡製鉄との準決勝で3点本塁打を放つなど活躍。決勝では小弓場保日本生命から補強)の好投もあって住友金属に完封勝利、初優勝を飾った。この時のチームメートに浜口春好がいた。直後の全日本チーム中南米遠征に小弓場、浜口とともに参加。その後も都市対抗野球に連続出場を続け活躍する。1966年にはアマチュア野球世界選手権日本代表に選出され日本の優勝に貢献、また社会人ベストナイン(外野手)に選出された。

1967年ドラフト1位で広島東洋カープに入団。即戦力として期待されるも1年目の1968年は8試合の先発出場にとどまる。翌1969年には一軍に定着し、8月から主に左翼手、一番打者として起用される。1970年には水谷実雄が左翼手として起用された事により三塁手に回り、99試合に先発出場を果たす。しかし1972年には打撃不振もあってレギュラーの座を外れ、出場機会も減少。

1973年川畑和人との交換トレードで、中日ドラゴンズに移籍。中日では持ち前の勝負強い打撃でレギュラーに定着する。1974年には左翼手としてクリーンアップを打ち活躍、初めて規定打席(11位、打率.290)に到達しリーグ優勝に貢献した。ロッテオリオンズとの日本シリーズでは全6戦に三番打者として出場するが、23打数4安打2打点と真価を発揮できなかった。

1975年には、元同僚の山本浩二首位打者を争う[1]。僅差で2位に迫っていた10月19日の対広島最終戦では、広島バッテリー(永本裕章投手と道原博幸捕手)から、プロ野球公式戦史上初の「満塁敬遠」を受ける[2](山本はこの試合を欠場していた)。2日後の10月21日のシーズン最終戦で安打を打てば逆転で首位打者になれたが、最終打席で内角への際どい投球を死球と判定され、本人は必死で「当たっていない」と主張したが、判定は覆らず[3]、惜しくもタイトル獲得はならなかった[4][5]。同年セ・リーグベストナイン(外野手)を受賞。1976年は故障もあって欠場が多く打撃も低迷、しかし翌1977年は復活し打率.284(リーグ23位)と活躍した。

1978年には谷沢健一の故障もあって一塁手に回るが、同年4月2日の大洋戦では斉藤明夫からサヨナラ本塁打、8月29日のヤクルト戦では松岡弘からサヨナラヒットを放っている。翌年には外野手に戻る。1980年には豊田誠佑が台頭し、故障もあって出場機会が減少する。

1981年富田勝・大島秀秋との交換トレードで、日本ハムファイターズに移籍。常時のスタメン出場はできなかったが、ここぞという場面での勝負強さは少しもさび付いておらず、19年ぶりのパ・リーグ優勝に貢献する。また、同年の日本シリーズでは第一戦で角三男からサヨナラヒットも放っている。1982年7月2日の対近鉄戦では、代打で通算150本塁打となる決勝2ランを放ち、この試合で通算200勝を達成した江夏豊の名球会入りに貢献した。1984年のシーズン終了後に現役を引退し、1985年、広島時代のコーチであった監督の広岡達朗に請われ、西武ライオンズの守備走塁コーチに就任するも、前年の田淵幸一山崎裕之の引退により右の代打が不足していたことから現役復帰した(コーチ兼任)。しかし、10試合のみの出場に終わり、シーズン終了後に西武を退団し正式に引退し、テレビ愛知・初代プロ野球解説者に就任した。

1992年からはかつての同僚である高木守道の誘いで中日二軍打撃コーチを務め、1993年から1994年までは一軍打撃コーチを務めた。

がっちりした体つきから、あだ名は「ポパイ」。攻守共に、闘志を前面に押し出したプレーで人気があった。通算137死球は、引退時点では竹之内雅史衣笠祥雄に次ぐ歴代3位の記録だった。

2025年12月8日23時20分、出血性ショックのため、岐阜県多治見市の病院で死去した。81歳没。同年11月より体調を崩して療養していたが、亡くなる前日に救急搬送されていた[6]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1968 広島 356758613201185001150292.224.303.310.613
1969 1023062703668611211223542023011536.252.336.415.750
1970 113377339417114113126291154025194511.209.282.372.653
1971 11133028327617358917104813018488.216.307.314.622
1972 4398868163022541111406151.186.268.291.559
1973 中日 10336131741861221615057656226110459.271.344.473.817
1974 12851043565126181182005815566501136311.290.375.460.835
1975 13053746880149200182236511673466134015.318.392.476.869
1976 1042612252948607752342822006436.213.292.333.626
1977 120444387601101301717460538332114519.284.358.450.807
1978 11136231739721101211939122231410494.227.314.375.689
1979 1134093454794160161584921103380135710.272.363.458.821
1980 581541341339307632701101504194.291.379.470.849
1981 日本ハム 8524320117521204763020033009215.259.374.378.753
1982 69896841841230110001163481.265.427.441.868
1983 546557415004279000060243.263.354.474.828
1984 4286774173012310102140282.221.274.299.573
1985 西武 1015141300031000000121.214.267.214.481
通算:18年 1531471440815221058150915516915177439662940118137580108.259.343.414.758
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

  • 最多安打 : 1回 (1975年) ※当時連盟表彰なし、1994年より表彰

表彰

記録

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号

  • 25 (1968年 - 1972年)
  • 6 (1973年 - 1980年)
  • 10 (1981年 - 1984年)
  • 98 (1985年 - 同年途中)
  • 35 (1985年途中 - 同年終了)
  • 92 (1992年)
  • 84 (1993年 - 1994年)

脚注

関連項目

外部リンク

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