江総
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江総は、先祖に西晋の散騎常侍江統、宋の尚書右僕射江夷、侍中・吏部尚書江湛など、歴代の王朝で高官を輩出した名門貴族の出身であった。7歳の時に父の江紑を亡くし[1]、母の実家に引き取られ、母方の伯父の蕭勱にその才能を可愛がられた。成長して学問に励み、家に伝わる数千巻の書物を昼夜をおかず読み、倦むことがなかったという。
18歳で武陵王蕭紀の法曹参軍として初めて出仕し、その後、梁の武帝に詩才を評価され、当時の重臣・学者たちからも年齢を超えた交友をもって遇された。太清2年(548年)、江総は徐陵とともに東魏への使者に選ばれたが、病気を理由に辞退した。同年、侯景の乱が起こり、翌太清3年(549年)に首都の建康が反乱軍によって陥落すると、江総は戦乱を避けて会稽に逃れた。さらに蕭勱の弟の広州刺史蕭勃を頼って嶺南に避難し、以後10数年を広州で過ごした。
天嘉4年(563年)、陳の文帝により中書侍郎として朝廷に召還され、文帝・宣帝に仕えた。宣帝の皇太子陳叔宝(後の後主)は江総を非常に気に入り、彼を自分の太子詹事とするよう懇願し、一緒に長夜の宴を開いたり、お忍びで江総の屋敷に通うほどであった。太建元年(569年)、江総の友人の欧陽紇が広州で反乱を起こし殺されると、江総は彼の唯一の遺児であった欧陽詢をかくまって養育した。
至徳元年(583年)、後主が即位すると、江総は彼の信任を受け高官を歴任し、至徳4年(586年)には尚書令となった。江総は尚書令の位についたものの政務に従事せず、後主と日夜酒宴の席で詩文を作るのみで、人々からは陳暄・孔範らとともに「狎客」と呼ばれていた。禎明3年(589年)、隋が陳を滅ぼすと、隋の朝廷に入り上開府となった。開皇14年(594年)、江都で死去、享年76。