池田俊彦 (軍人)
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本籍地は鹿児島県。大阪市で生まれる。東京府立第六中学校(現在の東京都立新宿高等学校)を経て、1931年(昭和6年)4月に陸軍士官学校予科に入学。1935年(昭和10年)6月に陸軍士官学校第47期を270番/330名の成績で卒業。同年9月、歩兵少尉に任官、歩兵第1聯隊第1中隊附となる。
翌1936年(昭和11年)2月、機関銃隊附林八郎少尉(第47期)が栗原に共鳴して決起に参加することを告げたことから彼も参加を決意。二・二六事件では、第2小隊を率いて首相官邸を襲撃。同年2月29日を以って懲戒免官となり、同日付で正八位返上を命じられる[1]。東京陸軍軍法会議において首相官邸を襲撃した8人の将校の中でただ一人無期禁錮の判決を受けた(他は死刑)。
千葉刑務所に収監。同じく収監されていた井上日召や四元義隆、橘孝三郎、佐野学、田中清玄に教えを受けたという。また朴烈事件の朴烈とも出会って交友を結んだと回顧録に記している[2]。
1941年(昭和16年)12月31日に恩赦令により仮出所となる。翌1942年(昭和17年)6月に日綿実業に入社し、社員としてサイゴンに渡った。
終戦後には田中清玄の紹介で 三幸建設に入社。また、処刑された蹶起将校たちの遺志を伝えるべく数作の著書を出版した。特に、晩年には東京地方裁判所の地下倉庫に二・二六事件の判決正文があることを突き止め、当時撮影・複写が許されない中で元被告人という立場を利用して一字一字筆写し、『二・二六事件裁判記録 蹶起将校公判廷』として出版した。これは二・二六事件の第一級資料とされるものである。
1965年(昭和40年)に20名が処刑された陸軍衛戍刑務所の跡地に建立された二・二六事件の慰霊観音像(渋谷区宇田川町)へは亡くなる直前まで花をささげ、香を焚き続けた。
