汪英紫
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大里王統・南山王承察度の叔父であったと伝わるが、承察度が2・3代襲名した名前であった場合、父も兄も承察度であったことになる。島尻大里城主。
もとは八重瀬城主だったと伝わるが、その後島添大里城を滅ぼし、大城城主の大城按司真武も滅ぼし、南山王の承察度をも凌ぐ力を手に入れた[1]。
その後、承察度は王位にあるも汪英紫が実権を握り、やがて汪英紫の世子の汪応祖に王位を簒奪されたとも、汪英紫・汪応祖に排斥され、朝鮮に亡命したとの説もある。
近年、漢文学者いしゐのぞむは、福建漢字音で汪英紫氏が「おんあんじすい」(大按司添)、汪応祖が「おんあんず」(大按司)、英祖が「あんず」(按司)であるとして、古琉球の諸王について新解釈を試みている[2]。