沢村繁太郎
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1865年、近江国彦根藩士、澤村益二郎の長男として生まれる[1]。
1879年(明治12年)頃、東京・築地の立教学校(立教大学の前身校の一つ)で学ぶ[7]。
父の盟友である大東義徹の助力を得て杉浦重剛が率いる東京大学予備門に入学する[1][2]。
1884年(明治17年)、19歳の時に学友で当時17歳の鈴木天眼とともに中退[1][2]。 中国行きを計画し、上海に渡り、1884年(明治17年)に末広重恭(鉄腸)が設立した東洋学館に入るが、大東義徹の勧告によるものといわれる[1][2]。
その後、中国語を数年に渡り学習し、天津を経て北京に浪遊するが、公使館附武官大尉の神尾光臣の知遇を受けて、中国側の要人と交遊する機会を得ることとなった[2]。
暫くして再び上海に行き、浅野徳三とともに、『上海時報』の記者として活動する[2]。
1888年(明治21年)には、当時の清国政府が外国の政治情報を視察する必要性を大いに感じる中、戸部侍郎(内務次官)であった傅雲龍と内閣中書(内閣書記官)であった顧厚琨を各国考察大臣に任命し、欧米に派遣することになるが、英語に通じた繁太郎は、その顧問役に抜擢された[2]。
繁太郎は両使をまず、日本に招き、大阪で郷里の先輩で当時、大阪控訴院検事長であった水上長次郎に会わせて、盛宴でもてなした。その後、東京を経て、米国、次いで欧州に渡り、各国の政治機構の状況を施設し、任務後に日本に帰国する[2]。
また、1887年(明治20年)頃には勝海舟とも親交があり、中国事情について対話しており、勝から1889年(明治22年)には20円、翌年には50円の援助を得ている[8]。また、1889年(明治22年)5月に米国から帰国した繁太郎は、同年7月に勝の元を訪問している[8]。
1891年(明治24年)、大阪の照暗女学校(現・平安女学院)の第3代校長のミス・エマ・ウィリアムソン(Emma Williamson)が立教学校に戻ることになり、沢村繁太郎が学校で最初の日本人校長(4代目校長)に就任[3]。
1892年(明治25年)、照暗女学校(現・平安女学院)の校長を辞任。後任の校長は千石温知が就いた[3]。
その後、奈良英和学校(立教大学の姉妹校)で務めるが[9][2]、1894年(明治27年)に日清戦争が起こると、大本営からの招集により[9]広島大本営へ赴き[2]、1895年(明治28年)11月22日、大日本帝国陸軍通訳官に就任[10][2]。第二軍司令部附となり、再び神尾光臣の参謀として行動を共にした[2]。
1896年(明治29年)、台湾総督府が対岸の情報を収集するため、華南における日本唯一の駐在領事館である厦門に出張所を設置するが、東亜同文会会員の沢村繁太郎が領事館へ、まずは台湾総督府外事課嘱託として派遣され、台湾総督府が必要とする資料を収集する。繁太郎の情報は迅速かつ確実なもので、児玉源太郎総督や後藤新平長官に直訴できる質の高いものであった[11][4]。これらの特別任務の功績から、厦門は領事館とは別個の総督府出張所としての存在が認められることとなった[2]。
1900年(明治33年)に厦門駐在員であった繁太郎は、厦門において現地の名門校を統合し、基礎基金として台湾総督府と中国側が経費を折半して各1万円を出資し、共同で『厦門東亜書院』を設立する。この時、日本側の董事(理事)には、上野専一(厦門領事)、黒沢礼吉(厦門税関四等幇弁)、清水友輔(台湾総督府出張員)、沢村繁太郎(台湾総督府出張員)、赤羽定教(台湾銀行厦門分店主任)、田崎源四郎(三井洋行厦門分店主任)が就いた。しかし学校は厦門事件で上陸した日本陸戦隊の司令部となり、学堂機能を失うこととなった[5]。
同1900年(明治33年)、厦門出張所も撤廃となり、1901年(明治34年)、横浜正金銀行上海支店に転任する。これは、旧彦根藩士で当時横浜正金銀行の経営に大きく関与していた相馬永胤の推挙によるものであった[1][2]。この時も、依然台湾総督府の嘱託として機密情報を総督府に届けたほか、外交官として林朝棟と交渉活動を行った[4]。
横浜正金銀行上海支店在勤中に、同行が北京に支店を新設することとなり、鍋倉直が任にあたることになると、繁太郎も抜擢され、補佐役として思い出の地である北京に移った[2]。
1901年(明治34年)9月、横浜正金銀行北京支店副支配人となった[2]。
主な著作
- 『台湾制度考』台湾総督府民政局,1895年9月
- 『対岸事情』1898年
脚注
- 1 2 3 4 5 6 瀬岡 誠「総合商社の企業者史的研究 : コスモポライトネス(吉田貞夫教授追悼号)」『彦根論叢』第260-261号、滋賀大学経済学会、1989年11月、165-187頁、ISSN 0387-5989。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 『対支回顧録 下巻』350頁-352頁,対支功労者伝記編纂会,昭11年
- 1 2 3 『平安女学院八十五年史』214頁,1960年
- 1 2 3 『日本統治時代における台湾の対外発展史 : 台湾総督府の「南支南洋」政策を中心に』20頁,61頁,鍾淑敏,1996年
- 1 2 『清末の同文館と東文学堂に関する研究 : 中国における日本語教育史の視点から』77頁,149頁,劉建雲,2001年
- 1 2 『対支回顧録 続 下巻』182頁,対支功労者伝記編纂会 編,大日本教化図書,昭和16年-17年
- ↑ 『立教学院八十五年史』12頁,1960年
- 1 2 『勝海舟全集 21 (海舟日記 4)』勝部真長, 松本三之介, 大口勇次郎 編,勁草書房,1973年
- 1 2 『教界評論 (47)』有信社,1895年12月
- ↑ 『官報 1895年11月22日』大蔵省印刷局,明治28年
- ↑ 『日本統治時代における台湾の対外発展史 : 台湾総督府の「南支南洋」政策を中心に』13頁,鍾淑敏,1996年
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