河合橋 (沼川)
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歴史
延宝年間(1673年-1681年)成立『東海道巡覧記』には以下のようにある[3]。
河合橋、板橋也。柏橋共云、廿四間、鈴川也。川下三俣と云所有。池贄の謠に作りし所なり。
河合橋は板橋であり、柏橋とも言うとある。また二十四間の長さで鈴川にあり、この川下に三俣(三股淵)が所在するとある。また三股淵が能〈生贄〉の舞台の地であることを記している。
富士山興法寺で発行された「駿河国富士山絵図」[4]にも河合橋は描かれているが、橋の下部に「字 生贄」とあり[5]、鈴川に「生贄」という地名が存在していた。
元禄3年(1690年)成立、菱川師宣『東海道分間絵図』には「もと吉原」の次に「さわひばし[注釈 1] 廿六ま」とあり、橋の長さは二十六間としている。また弘化4年(1847年)成立『諸國道中旅鏡』には「川井の橋長さ廿九間」とあり、二十九間とする[6]。
寛政13年(1801年)成立の大田南畝『改元紀行』には以下のようにある。
元吉原のあたり、松林のうちをゆくに、しばらく富士を左にみるは、道の曲れる故なるべし。川合橋をわたり吉原の宿にいる。宿の人家賑ひなし。 — 『改元紀行』巻之上
南畝は川合橋を渡って吉原宿に到着した。また富士山を左に見る箇所である「左富士」を解説している。そして吉原宿は賑いが無いとしている。
頓て元吉原を打すぎ、かしは橋といふ所にいたる。此所より富士の山正面に見へて、すそ野第一の絶景なり。
このように、柏橋(河合橋)から見る富士山が富士裾野の第一の絶景であると絶賛する描写がある。