吉原宿
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元吉原宿
吉原宿は貝原益軒『壬申紀行』に「此町はちかき世三たびたちかはる故に、もと吉原、中吉原とてあり」とあるように、高潮等で移転を繰り返している。従って、従来「吉原」と呼称された地点は「元吉原」と呼称されるようになった。
吉原宿は中道往還・村山道の起点[1]である他、富士山の玄関口である大宮・村山口登山道へ至るための富士山の玄関先であった。また能〈生贄〉の舞台の地として知られる。
吉原宿は当初現在のJR吉原駅付近にあったが、寛永16年(1639年)の高潮[2] により壊滅的な被害を受けたことから、再発を防ぐため内陸部の現在の富士市依田原付近に移転した(中吉原宿、現在の八代町付近)。
中吉原宿
延宝8年(1680年)閏8月6日の高潮で壊滅した宿である。壊滅直前の中吉原宿を様子を描いた登山案内図として、高潮と同年作『富士名所盡』がある[3]。
新吉原宿
中吉原宿の壊滅を受け、翌年の天和元年(1681年)に移転して成立した宿である。この地点が現在の吉原商店街に該当する[4]。
この移転により原宿 - 吉原宿間で海沿いを通っていた東海道は海から離れ北側の内陸部に大きく湾曲する事になり、それまで(江戸から京に向かった場合)右手に見えていた富士山が左手に見えることから、"左富士"と呼ばれる景勝地となった[5]。
小松清廉『小松帯刀日記』の安政2年(1855年)の記録には以下のようにある[6]。
このように「吉原」(元吉原)「中吉原」「今の吉原の宿」(新吉原宿)と区別している。新吉原宿の往時は広重の絵にあるような松並木であったが、現在は1本の松の木が残るのみである。
富士参詣の中継
複数の道中図において吉原宿の箇所に「宿の内右に富士参詣大宮口への道あり」とある他[注釈 2]、寛政7年(1795年)の高力種信『東街便覧図略』に「且此宿に富士参詣大宮へ道あり」[7]、『吾嬬路記』に「吉原より(中略)大宮にゆく道あり(中略)是より不二へのぼる道あり」とあるように[注釈 3]、同宿は富士山の玄関口である大宮・村山口登山道へ至るための玄関先の位置づけを有していた。
元禄5年(1692年)成立の貝原益軒『壬申紀行』は、吉原からの道中や時間経過を詳細に記している。
| 場所 | 内容 |
|---|---|
| 吉原宿 | 丑の時(午前1:00~3:00)に出発 |
| 大宮口 | ↓ |
| 村山口 | ↓ |
| 砂振 | 同日の暮に着 |
| 夜行登山 | |
| 山上(山頂)よりすこし下 | 暁方(夜明け近く)に着 |
| 山上(山頂) | 夜明けに着 |
生贄郷
吉原宿一帯は「生贄郷」と呼ばれていた。駿河国の地誌『駿河志料』には、以下のようにある[9]。
稚贄屯倉此地より吉原驛に至り、里俗生贄郷と称す、古への稚贄屯倉の地なるべし(中略)近世吉原驛此地など生贄郷と称し、池贄と書けり
このように吉原驛(吉原宿)周辺は生贄郷と呼称されていた。また吉原宿は能「生贄」の舞台の地でもあり、その謡曲には以下のようにある[10]。
昔よりこのかた吉原の宿に、今夜泊まりたる旅人は、何れも今日の生贄の御神事に御会い候ぞとよ
駿州富士の郡下方の郷、大蛇の御池にして、贄の少女を供へ奉る所なり
この「大蛇の御池」は三股淵のことである。また地誌『駿国雑志』には以下のようにある[11]。
このように吉原宿は人身御供と関連して多く言及されている。