河守遺跡
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地理
以下の情報は、河守遺跡の複合遺跡群の全ての範囲を対象とした情報であるため、個々の時代の散布地についての情報が相違する場合もある。
河守遺跡は、大江町の中心にある河守地区の東側に位置し、由良川の左岸の標高約9~11メートルの沖積地にある。遺跡付近は旧丹後国加佐郡河守郷に属しており大江山を越え宮津へ至る交通路の玄関口となる。
河守遺跡は、条里制地割が現在の耕地の地割に踏襲されていると認識されており耕地地割は東西南北の方向に沿って条里制の基本区画である一町方格(約109メートル四方の正方形)の碁盤目状に区画されている。
- 遺跡所在地:京都府加佐郡大江町河守字角田ほか(きょうとふかさぐんおおえちょうこうもりあざかどたほか)
- 都道府県コード:26
- 所在地コード:26201
- 日本測地系緯度:北緯35度23分08.5秒
- 日本測地系経度:東経135度09分01.8秒
- 世界測地系緯度:北緯35度23分11.4秒
- 世界測地系経度:東経135度08分50秒[1]
遺跡は散布地であり、複数の広範な場所に須恵器や弥生土器等の遺物が分布している。
| 名称 | 種類 | 所在地(大字) | 所在地(小字) | 概要 | 時代 | 出土品 | 現状 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 河守遺跡 | 不明 | 河守 | 太田 | 平地・条里地割遺存 1985年(昭和60年)発掘 | 弥生時代~中世 | 弥生土器・土師器・須恵器・墨書土器・漆器・下駄・杭・布目瓦・銅鈴・銅銭・鉄鏃 | 全壊 |
1997年(平成9年)11月~1997年3月にかけての大江町教育委員会の松本学博による調査の結果、現在の畦畔の真下またはそれに平行し部分的に板材や杭を用いて補強された砂利敷の遺構が東西約15メートル、南北約70メートルにわたって検出された。
出土遺物は、須恵器の破片が主で、条里畦畔の中からは平安時代初期の須恵器の杯身が出土した。さらに木簡一点が条里畦畔脇の8~9世紀の須恵器の破片を多く含む灰色粘土土層から発掘された[3]。
関連遺跡
- 河守北遺跡
河守北遺跡は、河守遺跡の北側に位置する複合遺跡群の一部である。由良川左岸の低位段丘上に存在し、近世に宮津へ抜ける街道筋の宿場町として栄えた街並みが現在でも残っている。道路建設に伴う調査により、中世末期から近世初期の蓋石を持つ石組み・木組みの溝が発見された。古墳時代中期の桂穴からは管玉が出土している[4]。
- 河守城跡
河守城跡は、中世以来の山城跡の中で最大規模の遺構を残すものである。浄仙寺から念称寺にかけての後方一帯の山がその遺構であり、浄仙寺の裏手の高い山(標高157メートル)が本城、峰続きの念称寺裏の低い山が新治城であり今でも帯曲輪(おびぐるわ)が残存している。河守城主であった新治蔵之佐が祀られる新治神社が存在する[5]。
出土品
- 蓮華文軒丸瓦(れんげもんのきまるがわら)
- 蓮華門軒丸瓦は、鬼瓦の一種であり、日本で最初に取り入れられた棟端飾瓦(むねはしかざりがわら)である。法隆寺若草伽藍出土の蓮華文鬼瓦が最古のものであるとされている。
- 飛鳥時代(7世紀)に、中国の百済の影響を受けた手法で寺院建築がなされる中で、蓮華文という瓦の文様も採り入れられた。中国での瓦の出現は西周(BC1050~BC771)に始まったと言われ、秦や漢の時代の宮殿等にも多用されている。朝鮮では三国時代(4~7世紀)に、高句麗・新羅・百済の宮殿や寺院で用いられた。百済は南朝の影響を受け、独自の蓮華文鐙瓦(れんげもんあぶみがわら)を生み出し、それが日本へ伝えられた。古代の瓦葺は宮殿や寺院のみで使用されており、瓦の出土量から屋根の棟だけに瓦を葺く「甍棟」(いらかとう)であったと考えられている。
- 7世紀後半(白鳳時代)になっても蓮華文であり、日本の鬼の交流博物館に展示されている「奥山久米廃寺の鬼瓦(複製)」は、代表的な作品であり「八葉単弁蓮華文」とその周囲に珠文を配置している。
- 奈良時代になると各国での国分寺造営が契機となり、各地で寺院建築が盛んとなり鬼面文が全国へと広まり各地方で独自の鬼門面が産生されていった。鬼面文鬼瓦の普及により、平安時代には蓮華文鬼瓦は姿を消していった[6]。
歴史・沿革
主な時代は、縄文・弥生 ・古墳 ・平安・ 鎌倉時代末期までの古代であるとされている。 河守から金屋、波美にかけての田畑一帯には「六反田」や「宮の坪」等の条里制特有の地名が存在しており、1985年(昭和60年)に約5か月間の宮福鉄道敷設の事前調査として、線路敷設予定地である関~新町にかけて、現在京都丹後鉄道の線路となっているところである延長約600メートル、幅20~30メートルの範囲の発掘調査が行われた。
発掘調査により、畦に打ち込まれた杭の列などが検出され、条里制遺構であることが確認された。また、多くの土器片(弥生式土器・土師器・須恵器)が出土し、土製品(紡錘車・土錘)や石製品、中国製の輸入青磁・白磁の焼物片も存在していた。
金属では、銅鈴及び中国の北宋箋「元符通宝(1098年(承徳2年)初鋳)」が出土し、過去の人々の暮らしにおける銅銭の利用も確認された。出土品等から、この近くに条理集落が存在したことは確実であると推測されている。
さらに、西暦1991年(平成3年)11月に、新町において8世紀末のものと考えられる「蓮華門軒丸瓦」(れんげもんのきまるがわら)の出土が確認され、蓮華門軒丸瓦が8世紀末当時に国衙(国の役所)や大寺でしか用いられていなかったことから国の出先機関のようなものがこの近くに存在した可能性を有していると考えられている。
「和名類聚抄」という10世紀に編集された日本最古の百科事典に、「丹後国 国府在加佐郡」との記載があることから、加佐国府が河守にあったと推測する学者も存在する。
古代
縄文時代~平安時代(縄文・弥生・古墳・飛鳥・奈良・平安)
《丹後国加佐郡旧語集》
河守 古城 上原徳寿軒居城也 細川藤孝丹後入国之以前ヨリ降参ス故旧領如以前被下 居城ハ其後京極ノ時代家臣岩崎豊後居城也 今ノ茶屋ハ舘ノ上ノ山也 青園寺 鎌鞍山 四徳院トモ云 丹後七仏薬師ト云像有 金丸親王御一代御働絵図二巻悉ク書此寺ニ有 大江山岩穴鬼賊楯籠山ノ木ヲ切ラシメ窟ノ口ニ詰テ焼殺シ給フト云 内裏屋敷 金丸親王三年御座有シト云 眞井原 丹後ノ内ニ同名三カ所根本比治山ナラン 国分未無之国ニ名モナキ神代ノ内丹後五郡ノ惣名ナラン 神書ニ比治卜府中ト河守卜三ヶ所也河守卜云モ篭ノ訓ナラン[8]
《丹後旧事記》 〈豊鋤入姫命。崇神天皇六年乙卯秋九月就美濃国笠縫の邑殊に磯城の神籬立ち天照太神及草薙劒奉移加佐郡此垂跡加佐郡在神守里内宮邑此代国民神守里豊鋤入姫命奉貢四年。
凡当国神社の初は崇神天皇即位六年乙丑秋九月大和国笠縫より殊磯神籬を立て天照大神及草薙の劒を加佐郡神守の地に移し奉り皇女豊鋤入姫命いつき奉るの垂跡内宮村とてあり。其後卅九年壬戌天照皇太神與佐の宮に迂幸ましまし倭姫四年を経て斎奉る是よりさらに倭国を求め玉ふ此年秋七月七日豊宇気比売神比治の真名井原に天降り與佐の宮へ通ひ御貢を奉り四十三年丙寅大和国伊豆如志の宮に移り玉ふ八年をいつき奉りぬと倭姫の世記に見えたり。又谿羽道主命も此朝十年四道将軍の勅命を受て比治の真名為原にいまして四方を治一国に豊宇気持命を祭らせ豊宇気比売は此神の化神成事を教祭らせ比治真名為原咋石嶽に豊宇気持神玉死ふひし形とて岩面に黒き人の影顕られたり。是を以て神崇む事当神社の始めなりと伝ふ延喜式に六十五社あげたり。 〉[8]
奈良時代に記述されたとされている書物から、河守遺跡付近の地域に関する歴史が読み取れる記述がいくつか存在する。 「丹後風土記残欠」には、日子坐王(ひこいますのきみ)の土蜘蛛(つちぐも)退治伝説の記載があることから地名等についての推測がなされている。
《丹後風土記残欠》
川守郷。川守ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王土蜘陸耳匹女等ヲ遂ヒ、蟻道郷ノ血原(今の千原)ニ到ル。・・・(略)・・・即チ官軍楯ヲ列ネ川ヲ守リ、矢ヲ発ツコト蝗ノ飛ブガ如シ。陸耳党矢ニ中リ、死スルモノ多ク流テ去キ。故其地ヲ川守ト云フ也[8]。
中世
鎌倉時代~安土桃山時代(鎌倉・室町・戦国・安土桃山)
鎌倉時代には「河守荘」という荘園名で、その他の主な中世時代には「川守郷」として「和名抄」丹後国加佐郡十郷の一つとして存在した。川守郷の郷域は、現大江町に河守の地名があることから、河守地区を中心とした地域であると考えられている。
《地名辞書》 〈河守郷。和名抄、加佐郡河守郷。今河守は上下の二村存す、本郷は其河守下村(即河守町)并に河東河西の三村を指すごとし、有道郷の西にして丹波天田郡の境界に接す、大同方に丹波神戸の川守薬とあるは此地の方剤なりしごとし。河守町、由良川の左岸なる山駅にして、関町とも云ふ、往時関寨の設ありしならん、細川家の時国侍上京徳寿軒と云ふもの川守に在城して丹波口を押へたりと、又康正二年造内裏引附に「拾貫文、大和弥九郎殿、丹後国河寺郷内段銭」と見ゆ、河寺は河守の謬なるべけれど、大和氏と云者詳ならず。鬼城山は河東村の南方に聳え、天田郡に渉る大山なり、山下の古刹観音寺は河東の管内とす。…補〔観音寺〕○日本名勝地誌、加佐郡の西南隅河東村宝谷山に在り、真言宗にして元と金剛院以下四院に分れしを、明治初年合して一寺となす、鬼ケ城山の東麓に位し、一古刹なり[8]。〉
近代
明治時代~昭和時代(明治・大正・昭和)
近代においては、国道175号線の改修工事や鉄道の工事の伴って幾度か調査が行われている。
