泉龍院 (新城市)
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| 泉龍院 | |
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| 所在地 | 愛知県新城市豊栄字大洞山6[1] |
| 位置 | 北緯34度53分52.3秒 東経137度28分11.6秒 / 北緯34.897861度 東経137.469889度座標: 北緯34度53分52.3秒 東経137度28分11.6秒 / 北緯34.897861度 東経137.469889度 |
| 山号 | 大洞山(おおぼらさん) |
| 宗派 | 曹洞宗 |
| 寺格 | 常恒会地 |
| 本尊 | 釈迦如来 |
| 創建年 | 文明2年(1470年) |
| 開山 | 盧岳洞都 |
| 中興年 | 大正9年(1920年) |
| 中興 | 宦堂金牛 |
| 正式名 | 大洞山泉龍禪院 |
| 法人番号 | 9180305007557 |


歴史
寛正元年(1460年)、聞庵道見(もんなんどうけん)禅師が入山。螺貝にまつわる山のいわれとそのおもむきに心動かされた聞庵道見禅師が、草庵を構えて坐禅で悟を開き人々を導くうち遠近多くに慕われ、寛正5年(1464年)諸伽藍が成就。岡崎市の龍渓院2世 盧岳洞都(ろがくとうと)禅師を勧請し、文明2年(1470年)に開山。のちに山号を大洞山と改める。以来熱心な布教によって帰依する者が増え、7世の世代には全国各地に270余寺の門葉寺院を擁するに至る。住職を、5世光国派、6世希聲派、7世琴室派の3派のうち輪住格をもつ末寺からの輪番制をとり、開山より175代の住職により継承されてきた曹洞宗中本山であって東海屈指の名刹。明治維新の改革で輪番制が廃止になったことをうけ、住職が独住制となり、現在独住5世(開山より180代)に至る。
開創の由来
500年前に現在愛知県新城市にあたるこの地に入山した聞庵道見禅師が、吉水の洞窟で坐禅を続けていたところ、山獄ごと震動して崩れ洞中から螺貝が吹き出した。
加えてこのとき里人から聞いた「螺貝山」という山の名称もあって、法華経でよく説かれる大法螺貝に因縁を感じたため分け入ってゆくと、霞がたなびいた山の渓谷は森林深く湧き水が豊かで、水路には大螺貝が生息し、沼の叢には大蛇が蹲っているとのいわれがあった。
山の風格は法華経で云われる明の螺貝山によく似ており、仏法を営むに好適地とみた聞庵道見禅師は、沼を埋めて草庵を構え榧の実を常食として只管に打坐し悟りを開いた。
しだいに多くの人が教えを仰ぎ道を求めて禅師に慕って随うようになり、やがて大勢の好意により伽藍の造営に及び、土地の造成時に沼澤の一部を残して「龍神池」と命名して大蛇の住処とした。また本堂裏山の湧き水を守護正意大明神として祀っている。諸堂が成就すると山号を「螺貝山」と命名した。
菅沼氏の帰依
天文8年(1539年)、野田城主初代菅沼定則の助成をうけ、開山以来長い年月で傷の激しくなった伽藍を改築。
菅沼定則は、天文10年(1541年)に10世泰年全継住職に帰依し不春居士号を授けられた。
定則は翌年、大洞山へ梵鐘を寄進。天文13年(1544年)の11世再々住職光国舜玉代に、定則は野田城主二代菅沼定村に家督を譲ると、大洞山大門前に「不春禅学敲門道場」を建立し住した。
天文15年(1546年)定則が病に臥せると光国舜玉は願いを聞き入れ当院に止錫。翌春2月14日に定則が逝去すると 10世泰年全継 11世光国舜玉 12世海岩俊智 の3導師により「永昌院殿不春玄休大居士」が呈せられ、当院に葬られた。
野田城主2代目菅沼定村が大洞村を新設して全域を院領としたことにより以来、山号を「大洞山」と改めた。