津軽承叙
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旧暦天保11年8月(1840年9月)、津軽氏一門・津軽氏(百助家)の津軽順朝の次男として、弘前にて誕生した。幼名は本次郎。初名は朝澄(ともずみ)。
陸奥黒石藩3代藩主・津軽承保の養子となる。嘉永4年(1851年)の承保死去に伴い跡を継ぎ、弘前藩主・津軽順承(承保の養父で元は黒石藩2代藩主。承叙の実兄津軽承祜を養嗣子としていた。下段系図参照)から偏諱を受け、承叙と改名した。安政5年(1858年)に従五位下・式部少輔に叙任[3]。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、本家の弘前藩主津軽承昭とともに官軍に参加し、箱館征伐に戦功を挙げた[5]。この功績により、明治2年(1869年)に賞典金1,000両が下賜された[6]。明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県に伴う免官まで藩知事を務めた[3]。
版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で802石[7][注釈 1]。
新暦1876年(明治9年)の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は、1万7254円26銭8厘(華族受給者中257位)[9]。
1884年(明治17年)7月8日、華族令施行により、華族が五爵制になると子爵に列する[10]。1890年(明治23年)7月10月には貴族院の開設と共に貴族院議員(子爵議員)となり、1897年(明治30年)7月10月まで在職した[2]。1903年(明治36年)12月7日、64歳で死去。跡を長男の類橘(るいきつ)が継いだ[1]。
和歌の才に恵まれ、「日本英傑百首」の一人として名を連ねている。