浦内川
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自然
歴史
浦内川の上流一帯は聖域とされてきた。1727年の『八重山島諸記帳』によれば当時は稲葉院と呼ばれており、若夏(旧暦4月-5月)には火気や飲食は厳禁とされ、被り物は脱ぐことが定められていた[14]。
1647年頃の『宮古八重山両島絵図帳』によると河口部には船着場があった。元禄年間(1688年-1704年)に作成された『元禄国絵図』には「歩渡」[15]、天保年間(1831年-1845年)に作成された『図天保国絵図』には「歩行渡」[16]と書かれている。
河口の両岸には早くからウラダとよばれる水田地帯が開発されていた[2]。
昭和初期には中流東岸に熊本営林局の事業所が設けられて、材木の伐採や植林などを行い小集落が形成されていたが、太平洋戦争が始まると事業は中止され、1944年の洪水[17]で集落も廃された[2]。また、1935年(昭和10年)から1943年(昭和18年)頃まで浦内橋上流の浦内川支流の宇多良川沿いに宇多良炭坑があった[18]。
浦内川の中流域沿岸にはかつて稲葉という集落があり、戦前は石炭事業が、1960年代には八重山開発株式会社による林業が盛んであった。交通は不便でありながらも、恵まれた水田を背景に稲葉では豊かな生活が営まれ、1960年(昭和35年)頃には15戸程度の定住が見られた。しかし稲葉の人口は徐々に減少し、1968年(昭和43年)の台風5号の豪雨による甚大な被害をきっかけとして、翌1969年(昭和44年)には廃村となった[19]。
1970年(昭和45年)に浦内橋(橋長272m、有効幅員6m)が竣工。浦内橋は老朽化が進んでいるため、2019年度から12年をかけて、上流側に隣接して橋長274m、幅員10m、片側歩道2mの新橋を架け替える計画である[20][21]。



