淮南線
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歴史
当路線は淮南の石炭を長江沿いまで運搬する目的で建設された。ルートの選定は有力政治家であった程士範によって行われ、のちに彼は運行を司る淮南炭鉱鉄道工程処の処長に就任した。1934年6月に正式に着工し、1935年2月1日には早くも淮南~合肥間の旅客列車の運行が開始され、1935年12月12日に竣工した。なお津浦線との権益侵害問題が生じたため、当初の名称「通江鉄道」から「淮南炭鉱鉄道」へと改称された。路盤は当時の正規の規格で設計されたものの、敷設されたのは狭軌の軽便レールとそれに対応する枕木であった。沿線には20余りの駅が設けられ、そのうち田家庵、大通、九龍崗、合肥の4駅は比較的規模が大きかった[1]。
建設資金は、すべて南京政府からの拠出金で賄われた。1937年10月26日、南京政府建設委員会は当路線を淮南炭鉱とともに宋子文財閥傘下の中国建設銀行公司に譲渡した。これにより民間企業となり、「淮南路鉱公司」と改称して石炭採掘と鉄道輸送を一元的に経営するようになった。淮南路鉱公司の理事会は、宋子文、張静江、程士範、杜月笙ら12人で構成された[1]。
完成後の当路線では、当時のチェコスロバキアから導入した機関車16両、石炭車300両余り、客車1編成が運用された。同社は九龍崗駅を拠点とし、運行管理、運営、メンテナンスを行う機関はいずれも九龍崗に設置された[1]。
1938年春、日本軍が南京へ侵攻した際、南京政府は当路線の設備を全て爆破するよう命じた。1938年6月4日、日本軍が淮南の鉱区と鉄道を占領した。1939年4月21日、日本軍の「興亜在華連絡部」は民間経営の大通炭鉱と九龍崗炭鉱を統合し、汪兆銘政府と共に淮南煤鉱股份有限公司を設立した。本社は上海に置かれ、日本軍の管理下に置かれた。この時期、機関車は破壊されており、鉱山で採掘された石炭は、人力や馬で線路上の石炭車を牽引して田家庵埠頭まで運ばれていた[1]。
1940年、日本軍の華東鉄道株式会社によって九龍崗~裕渓口間の鉄道が修復され、32両の機関車を投入して九龍崗〜田家庵間及び九龍崗〜裕渓口間を復旧させた。その後、更に水蚌線が開通して津浦線と接続され、南京や上海への石炭輸送が円滑化された。1945年に日本が降伏した後、淮南炭鉱と鉄道は再び宋子文の淮南路鉱公司の管轄となった。1949年以降は上海鉄路局の管轄となっている[1]。
1958年、裕渓口〜蕪湖北間に長江を渡河する鉄道連絡船が進水し、就航した[2]。
2000年9月、蕪湖長江大橋の開通に伴い、鉄道連絡船は廃止された。これに伴い蕪湖北駅は旅客営業を終了した。現在、同駅は二壩駅と改称されている[3]。
2010年1月より淮南〜合肥間で、2014年末より合肥~蕪湖間で電化及び複線化工事が始まり、2016年12月29日に完成した[4]。
