天文11年(1542年)、土佐一条氏当主・一条房家の子である東小路教行(一条教行)の子として生まれる。父の教行は天文18年(1549年)に従五位下、大蔵卿に叙任され、天文21年(1552年)には従五位上の位を授けられており、教忠も天文18年(1549年)に僅か7歳にして従五位下の位を与えられている。
永禄元年(1558年)頃、西園寺氏の重臣・渡辺政忠の養子となり、西園寺十五将の筆頭として1万6,500石を領した。
永禄の初め頃、渡辺氏(河原淵氏)をはじめとする三間表の領主たちは一条氏と親交を結んでいたが、永禄7年(1564年)の秋に一条氏が教忠や竹林院公義、河野通顕らと共謀して土居清良を追討するという噂が流れると、清良は教忠らの居城を包囲した。これを受けて教忠らは人質を出して他意のないことを示すが、一条氏側からも人質を出すこととなり、これによって一条氏と三間表の領主たちとの和議は破られることとなる。
永禄8年(1565年)正月、一条兼定は佐竹信濃守を総大将として伊予に軍勢を差し向ける一方で西ヶ方口からも主力の軍勢を攻め込ませたが、一条軍に実父の教行が副将として参加していたため教忠は城に籠もって迎え撃とうとせず、同年8月末に兼定自ら軍を率いて伊予に侵攻した際には一条軍と通じて戦おうとしなかったという。そのため永禄10年(1567年)6月、西園寺公広に河後森城を包囲されるが、公広に二心のないことを誓ったため許されている。
天正2年(1574年)頃[注 2]より長宗我部氏による攻撃が始まり、福留隼人率いる長宗我部軍500騎が河原淵領に侵攻すると、教忠は西園寺氏や近隣の諸将に後詰めを乞い、城から打って出て戦ったという。
天正3年(1575年)、豊後の大友氏に身を寄せていた兼定が再起を志して伊予に渡ると、旧臣や宇和郡の諸将を糾合して長宗我部軍に戦いを挑むが(四万十川の戦い)、何故か一条氏と血縁のある教忠はこの戦いに参加していない。
天正5年(1577年)、吉良親貞が久武内蔵助を将として河後森城を攻撃させると(『南海通記』)、長宗我部氏による一連の攻撃によって領内が疲弊していたこともあり、遂に教忠は人質を出して降伏した(『長元物語』)。
その後、正確な時期は不明だが[注 3]、教忠の寵臣であった芝政景(源三郎、一覚)が下剋上を起こし、教忠を蟄居させた。『清良記』によると、政景は月見の宴にことよせて教忠を鰯川に招き寄せ、教忠が酔い潰れた頃を見計らって河後森城を乗っ取ったとしているが、実際には周到に準備を重ねた上で下剋上を起こしたものとしている。その後、教忠は政景の家来たちによって警護されつつ現在の松野町蕨生に落ち延び、以後は蕨生に移り住んだとも[注 4]、その後鍵尾村に移住したともいう。
寛永5年(1628年)、死去。86歳没。