西園寺公広 From Wikipedia, the free encyclopedia 画像提供依頼:愛媛県歴史文化博物館所蔵の木像の画像提供をお願いします。(2019年3月) 時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 天文6年(1537年)死没 天正15年12月11日(1588年1月9日)墓所 愛媛県西予市宇和町卯之町の光教寺 凡例西園寺 公広 墓所である西予市の光教寺(2026年3月)時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 天文6年(1537年)死没 天正15年12月11日(1588年1月9日)墓所 愛媛県西予市宇和町卯之町の光教寺幕府 室町幕府主君 長宗我部元親→小早川隆景氏族 伊予西園寺氏父母 父:西園寺公宣、養父:西園寺実充兄弟 公次、公広、宣久、黒瀬公義妻 正室:西姫(西園寺実充娘)子 なしテンプレートを表示 西園寺 公広(さいおんじ きんひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。伊予国の戦国大名。伊予西園寺氏8代当主。黒瀬城主。西園寺十五将の一人。 天文6年(1537年)西園寺公宣の子として誕生。もともとは伊予来住寺で僧籍にあったが、弘治2年(1556年)当主であった伯父・西園寺実充の実子である従兄弟の公高が戦死したため、永禄8年(1565年)公広は実充の養嗣子として迎えられて還俗し、実充の娘・西姫の婿となり、家督を継承した。同年には土佐国の一条兼定を攻めている。 永禄11年(1568年)には毛利氏・河野氏と手を結んで一条兼定・宇都宮豊綱・津野氏を攻めて勝利した(鳥坂峠の戦い)。 元亀3年(1572年)には西園寺15将の1人土居清良の仲介で土佐一条氏一条兼定との和睦が成立している(清良記)。 天正12年(1584年)長宗我部元親の猛攻を受けて降伏し、さらに翌天正13年(1585年)四国平定を図る豊臣秀吉配下の小早川隆景に降伏した。その後は居城の黒瀬城のみを残され、新領主の隆景に属し九州平定に配下として従軍するなどしている。 天正15年(1587年)、隆景の転封に伴って新たに宇和の領主となった秀吉の家臣・戸田勝隆は検地に反対する西園寺旧臣の一揆に遭い、公広がこの背後にいると疑いを向けた。「秀吉が本領安堵した」という偽の朱印状を示されて、勝隆に呼びつけられた公広は、戸田邸で謀殺された。享年51。実子も養子もなかったため、これにより大名としての伊予西園寺氏は完全に滅亡した。 辞世の歌は「黒瀬山 峰の嵐に 散りにしと 他人には告げよ 宇和の里人」。 表話編歴 伊予西園寺家第8代当主(1565年 - 1588年)宗家 通季 公通 実宗 公経 実氏 公相 実兼 公衡 実衡 公宗 実俊 公永 実永 公名 実遠 公藤 実宣 公朝 実益 公益 実晴 公満 実尚 公宣 公遂 実輔 致季 公晃 賞季 公兼 実韶 公氏 寛季 治季 公潔 師季 公望 八郎 不二男 公友 分家・支流 伊予家 公良 公俊 実房 公利 公季 公家 実充 公広 | 絶家 Related Articles