湯浅芳彰

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国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県
生年月日 1919年
没年月日 1982年以前
湯浅 芳彰
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県
生年月日 1919年
没年月日 1982年以前
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1946年
初出場 1946年5月5日
最終出場 1947年8月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

湯浅 芳彰(ゆあさ よしあき、1919年 - 1982年以前)は、兵庫県出身[1]プロ野球選手。ポジションは投手

滝川中(現滝川中学校・高等学校)在学中には、1936年,1937年1937年夏の甲子園に出場。1936年春ベスト8,1937年夏ベスト4に投手として貢献した[2]。中学時代の同級生に三田政夫,田中成豪,伊東甚吉がいる。また南海巨人で大活躍した別所昭は、湯浅の2年後輩に当たる。中学卒業後は、満州に渡り、鞍山昭和製鋼野球部に所属。1938年第12回都市対抗野球大会エースとして出場し、準々決勝まで進んだ(準々決勝で全京城〈京城府〉に5―10で敗れた)。

終戦後、日本に引き揚げてきたが、野球が忘れられずに1946年パシフィックの結成に参加[3]。同年7月26日阪神戦(西宮球場)で阪神の渡辺誠太郎と投げ合い、1試合所要時間の最短記録となる55分で試合を終了させた。湯浅自身は93球を投げて被安打7・自責点1の好投だったものの、味方打線が渡辺に完封されて負け投手になった。10月13日ヴィクトル・スタルヒンが入団(正確には1944年巨人を解雇され、戦後の1946年に監督の藤本定義に誘われる形で球界復帰した)すると、背番号を17から15に変更させられた(背番号17はスタルヒンのトレードマークでもあった)。翌1947年シーズン終了後に引退した。

以後の消息は不明であるが、1982年時点では既に故人である[4]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1946 パシフィック
太陽
24171110312----.200713155.1166592--2402185623.581.66
1947 7420013----.25020543.158025--2101035244.911.92
通算:2年 31211310415----.211918198.22245117--45031120863.901.72

年度別打撃成績

















































O
P
S
1946 パシフィック
太陽
37827679210132000--6--016--.118.183.171.354
1947 2028252500052000--3--03--.200.286.200.486
通算:2年 57110101914210184000--9--019--.139.209.178.387

背番号

  • 17 (1946年。10月12日まで着用)
  • 15 (1946年10月13日 - 1947年)

脚注

関連項目

外部リンク

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