溝尾茂朝
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将
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出自
溝尾氏(三沢氏)の出自は不明であるが、阿波国徳島藩蜂須賀家の家臣である三澤十左衛門家に伝わった「成立書并系圖共」では「明智庄兵衛為信」の父・源為虎が尼子義久の娘の子かつ出雲国亀嶽城(亀嵩城)主であるとされており、出雲国出身であった可能性がある[5]。
島根県仁多町の『仁多町誌』によると、三沢氏は信濃源氏の源為公流飯島氏あるいは木曽義仲の末裔であり、出雲国三沢郷に土着したことで三沢を称するようになったという。また、系図によると上記の「源為虎(三沢為虎)」は源為公の17世孫とされる[6]。
『美濃国諸旧記』によると、弘治2年9月26日(1556年11月8日)に明智光安(『美濃国諸旧記』では明智光秀の叔父、明智秀満の父とされる)・光久兄弟が一色義龍と対立し、揖斐光就・長井道利らに攻められ明智城に籠城していた際に、「相随ふ一族」である溝尾庄左衛門、三宅式部之助、藤田藤次郎、肥田玄番、池田織部、可児才右衛門、森勘解由が光安・光久とともに戦ったという。しかし、茂朝が明智光秀から明智姓を賜り「明智庄兵衛」を名乗ったように、三宅氏・藤田氏・肥田氏・池田氏・可児氏も光秀に仕えて明智姓を賜った(あるいはその可能性がある)家臣達の氏であり[注釈 2]、溝尾氏も含めて実際には明智氏の一族ではなかったと考えられる[7][8][9]。
経歴
『細川家記』の永禄11年(1568年)7月10日条に、明智光秀が足利義昭と織田信長を仲介する際の光秀の家人「溝尾庄兵衛」として史料に初めて登場する[10]。
天正元年(1573年)、朝倉氏滅亡後の8月から9月まで明智光秀と羽柴秀吉と滝川一益が越前国の占領行政を担当していたが、9月末から「三沢小兵衛秀次」、羽柴家臣・木下祐久、滝川家臣・津田元嘉の3人がそれぞれ代官として引き継ぎ、越前国北ノ庄の朝倉土佐守の旧館で業務をして「北庄ノ奉行信長殿御内三人衆」(『
朝倉始末記』)と呼ばれ、10月1日には称名寺に領地の安堵状を出している(称名寺文書)。当時、越前の守護代には桂田長俊が任じられていたが、越前の政務の実態は信長の朱印状に基づいて北ノ庄の3人の代官が政務を執行しており、寺領の安堵や年貢・諸公事を収納する事の認可を3代官の連署で許可していたり[11]と、越前支配の実権は3代官が掌握していた。
天正2年(1574年)1月19日に富田長繁率いる越前一向一揆が起こり守護代・桂田長俊を殺し、次に一揆勢は21日に3人衆を攻めたが、安居景健と朝倉景胤の仲裁で、逃れて京都へ戻る[12][13]。
天正3年(1575年)からの光秀の丹波攻めに従軍する。天正4年(1576年)2月に丹波攻めの途中で国人の中台、曽根の2名に重臣「三沢惣兵衛尉秀儀」として「万雑公事」を免除している[4]。天正7年(1579年)4月の光秀書状には「小兵衛」を「明智」としており明智の名字を使用していた(和田弥十郎宛光秀書状「下条文書」)[14]。 天正10年(1582年)5月には、接待役となった光秀に従って徳川家康の接待の指揮に参加したと言われる。
以上のように朝倉氏滅亡後に越前の代官となった「三沢秀次」や、丹波統治時代に光秀書状に添え状を出している「三沢秀儀」は溝尾と同一人物と推測され、明智家中の政務に大きく関与していたと思われる[3]。
天正10年(1582年)、池田家本『信長公記』において本能寺の変前の重臣合議の場に明智秀満、明智光忠、斎藤利三、藤田行政と共に参加しており信長を討つことを賛成した。なお、他の自筆『信長公記』では他4重臣のみで池田家本では太田牛一の自筆で「三沢昌兵衛」が加筆挿入されている[4][15]。
本能寺の変後の山崎の戦いに参加したが、敗れて光秀と坂本城へ落ち延びようする。しかし、光秀が落ち武者狩りの百姓によって致命傷を負わされると、光秀の命令で介錯を務めた。そして光秀の首を持ち帰ろうとしたが、再び落ち武者狩りに見つかり首を竹藪の溝に隠すと坂本城へ落ち城で自害した。またその場で自害して果てたとも言われる。享年45[要出典]。光秀の首は百姓に見つかり翌日、織田信孝に差し出された(兼見卿記)[16]。