王師範
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経歴
平盧軍節度使の王敬武の子として生まれた。龍紀年間、父が死去すると、師範は幼年であったが、平盧軍に推されて節度使となった。棣州刺史の張蟾が師範に叛いて、師範の命を受けなかった。また唐の朝廷が崔安潜を平盧軍節度使に任じたが、師範はその命を拒んだ。張蟾は崔安潜を棣州に迎え、ともに師範を討った。師範は部将の盧弘に兵を率いて張蟾を攻めさせたが、盧弘もまた叛き、張蟾と通じて軍を返し、青州を襲撃した。師範はこれを知ると、盧弘に厚く賄賂を贈って、盧弘を迎えたいと申し出た。盧弘は師範が幼年であることからあなどっており、備えを設けていなかった。師範は要路に兵を伏せ、紀綱の劉鄩に盧弘を斬らせた。さらに自ら兵を率いて棣州を攻め、張蟾を捕らえて斬った。崔安潜は長安に逃げ帰った。師範は儒学を好み、若くして縦横家の学問を修め、民衆を安堵させて暴行を禁止したので、当時の諸侯に称賛された[3][4]。
宣武軍節度使の朱全忠が鄆州の朱瑄と兗州の朱瑾を平定すると、朱友恭を青州に派遣して攻撃させた。師範は盟約を願い出て、朱全忠と誼を通じた。天復元年(901年)冬、李茂貞が昭宗を鳳翔府に連れ去ると、韓全誨が詔と偽って朱全忠に罪を加えようとして、四方の藩鎮に出兵を命じた。詔が青州に届くと、師範は泣いて詔を受け入れ、使者を揚州に送って楊行密と通じ、部将の劉鄩に兗州を襲撃させ、別将に斉州を攻めさせた。ときに朱全忠は鳳翔府を包囲していたが、師範の派遣していた将の張居厚が華州城東で華州の将の婁敬思を殺し、華州の西城に攻めかかった。崔胤が華州にいて城門を閉ざさせたので、張居厚は逃げ去った。劉鄩が兗州を攻め落とすと、朱全忠は怒って、朱友寧に軍を率いさせて討たせた。朱友寧は青州軍に敗れて捕らえられ、その首級を淮南の楊行密のもとに送られた。天復3年(903年)7月、朱全忠は楊師厚に命じて青州に進攻させ、軍を臨朐に駐屯させた。楊師厚は青州軍をたびたび破り、青州城下に進軍した。師範は恐れて、副使の李嗣業を楊師厚のもとに派遣して降伏を願い出た。朱全忠は降伏を許し、李振を派遣して権典青州事をつとめさせ、師範には一家ごと汴州に移住させた。師範はロバに乗ってやってくると、朱全忠に処罰を求めた。朱全忠は師範を礼遇し、ほどなく推薦して河陽節度使とした[5][6]。
開平元年(907年)、後梁の太祖(朱全忠)が即位すると、師範は召還されて右金吾衛上将軍となり、洛陽に住んだ。太祖が諸子を王に封じると、朱友寧の妻が夫を殺した師範への恨みを訴えた。太祖は涙を流して、「この賊のことを幾年も忘れていた」といって、人を派遣して師範を洛陽で殺害させた。弟の王師誨や兄の王師悦や子甥200人も殺された。後唐の同光3年(925年)3月、太尉の位を追贈された[7][8]。