王延 (五代)

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王 延(おう えん、880年 - 952年)は、五代十国時代官僚は世美。本貫鄚州長豊県[1][2]

若くして儒者となり、詞賦を得意とした。郷里が戦乱に遭ったため、王延は郷里の推薦を受けることができず、滄州に滞在し、義昌軍節度使の戴思遠に従って後梁に入った。作った賦を宰相の李琪に見せて喜ばれ、これにより人士の評判を取った。ほどなく推薦されて即墨県令となり、武寧軍・帰徳軍・天平軍・平盧の節度従事を歴任した。後唐長興元年(930年)、馮道趙鳳が宰相の位にあり、王延は左補闕に抜擢された。長興2年(931年)、水部員外郎・知制誥から中書舎人に転じた。清泰3年(936年)、本官のまま知礼部貢挙をつとめた。吏部尚書盧文紀はもと宰相の崔協と合わず、崔協の子の崔頎が科挙を受験するに際して、王延に圧力をかけてきた。しかし王延は崔頎を甲科に及第させた[1][3]

後晋天福2年(937年)、王延は御史中丞となった[4]。天福3年(938年)、尚書右丞に転じた[5]南唐への使節をつとめた[1]。天福4年(939年)、帰国すると、吏部侍郎に任じられた[6]。天福8年(943年)、尚書右丞となった[7]太常寺卿に転じた。開運元年(944年)、工部尚書に任じられた[8]礼部尚書となった[9]。開運3年(946年)、刑部尚書に転じた[10]後周広順元年(951年)、病のため分司西都の職を求め、太子少保に任じられた。監察御史の弾劾を受けて、少傅として致仕した。広順2年(952年)冬、死去した。享年は73[9][11]

子の王億は、北宋に仕えて殿中丞となった[9]

脚注

伝記資料

参考文献

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